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Long mint, little dint.

 
 マスコミのなかに、多々、顔を出していたり、書物を、多数、出版している「有名人」と会って話してみると、おおかた、多数のキーワードを知ってはいるけれど、事実を凝視して丁寧な論理的思考のできない「上げ底」であることを感じる。

 およそ、概念は、階が上位になればなるほど、汎用性を帯びて、多数の事象を包括することができるようになるけれど、いっぽうでは、多数の反証も内包することになる。概念を多く知っていることが、かならずしも、事実を凝視することに役立つ訳ではない。身体を使わなければ対象に対して作用することができない、という当然のことが等閑にされていて、忙しいことを口実にして--この口実自体が皮相的な先入観に過ぎないのだけれど、それさえ気づかないで--、多数のキーワードを「手っ取り早く」覚えて、知った振りを装うことは救いがたい病でしょうね。そういう状態に陥れば、なにを知っているのか、また、なにを知らないのか、ということが、もう、わからなくなってしまう。「ぎっしりと詰まった空虚」と云ってもよい状態でしょうね。

 1つのキーワードとして、概念がまとめられるためには、膨大な使用例 (具体例) がなければならない。そして、それらの使用例を一般化すればするほど--抽象化の階が上位になればなるほど--、それぞれの使用例の間に観られた相違点は切り落とされる。「いったん高く昇ってから、ふたたび降りる」(ギットン)という やりかた が正しい思考法である。
 書物というのは、かならずしも、多くを読まなければならない、という訳ではない。適切な書物を、少数、読んで、書物のなかで提示された論点に関して、自らが、日頃、仕事のなかで接触している「生の」材料を対象にして、論点を再考すればいい。

 書物のなかに価値があるというのは、その書物を、1つの世界として構成するための「内的秩序 (あるいは、精神)」にある、と思う。したがって、新たな論点を提示している著作は、読みやすい書物ではない。
 すでに知られている論点を、論点の正確性を崩して、興味をそそるような言い回しに変形すれば、「yellow journalism」にすぎない。

 書物は構成物である。構成物は「作られる物」である。その作りかたが、書物をセールスために、刺激的な・興味本位な文体・構成になっているか、あるいは、「書かざるを得ない (訴えなければならない)」論点を、厳しく まとめているのか、という点を、読む人々は判断しなければならない。良い書物は、読者と論点を共有するために、「読者の考えを代弁している」。すでに知られている論点を、興味本位に綴ることは「紙の無駄遣い」にすぎない。

 エンジニアは、頭の作用と手の作法が一致していなければならない。
 設計図が用意され、完成が近づくにつれて、純粋に機械的な仕事が多くなる。それらの機械的な仕事は設計図のなかに具体化されており、「正確な」寸法が記述されていなければならない。漠然とした計画のなかに完成を夢見るのではなくて、設計図のなかの1つの些細な材料であれ、極めて正確に実現しなければならない。
 エンジニアやプログラマが、精密さを遵守しなければ、システムは稼働しない。システムを稼働するためには、「正確な」設計図が前提となる。そして、「的確な」技術 (technique と mechanism)が前提となる。たとえば、機械の製造では、1つのネジすら、疎かにできないし、コンピュータ・プログラムでは、1つのステートメントにも注意を払わなければならない。
 ザッとした概念図は設計図にはなり得ない。

 現代では、「個性」や「概念」が誇張されている、と思う。注意を引くための刺激的なキーワードが、洪水のように氾濫して、多くの刺激のなかで無感覚になってしまったのが--あるいは、焦燥に駆られているのが--現代病の症状でしょうね。
 精密さを遵守するエンジニアたちが、キーワードの並べられているマスコミの記事を割り引いて読み、「ぎっしりと詰まった空虚」な概念しか語れない「有名人」を軽視していることには正当な理由がある。

 (2003年11月1日)

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