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Wit and wisdom are eternally precious.

 
 篠田義明教授 (早稲田大学) が、定年退官記念講演 (最終講義) を、 1月24日、なさいました。篠田教授は、TSW (Technical and Scientific Writing) の第一人者です。大学教員の定年退職年齢は 70歳です。

 当日、最終講義がおこなわれた小野講堂は、立ち見席が出るほどの参加数でした。演題は、「Technical Communication の現状と展望」でした。記念講演会の時間帯は、17:00から 18:30でしたが、篠田教授が御講義なさった時間は、17:30 から 18:30の1時間でした。ご講演の後、親睦会が催されました。
 30年ぶりに、教授の御講義を拝聴させていただきました。

 篠田教授の最終講義を聴きたかったので、当日 (土曜日でしたが)、小生は拙宅にて仕事をしていて、仕事を途中にしたまま、大学のほうに向かいました。やり遺しの仕事があったので、講義を聴講して、(親睦会に参加しないで、)直ぐに帰宅しました。

 帰宅してから、中途にしたままの仕事に取り組む前に、最終講義の ハンドアウト を読み返して、小生は、感動を、再び、味わいました--もっとも、講義を聴いた興奮が冷めやらないので、自らの仕事に、なかなか、着手できなくなってしまいましたが(笑)。

 篠田教授の御講義を拝聴させていただいて、小生は、自らの 仕事のやりかた (と研究のしかた) について、数多くの反省点と いくつかの視点を得ることができました。
 知識を研究対象とする職業では、年齢的な定年制度というのは、適切な制度なのか、という疑問も感じました。篠田教授は 70歳ですが、つねに、ほかのだれも着手していない・大切な (critical な) 論点を対象になさって、前進なさる研究態度は、「新進気鋭」 とも言えるような新鮮さを感じます。第一級の専門家が、年齢制限という制度のために、退職しなければならない、というのは、大学機関にとって損失ではないでしょうか。篠田教授ほどの大人物には、定年退職後にも、研究を公になさる様々な手段・機会が用意されていますので、今後も、我々が、篠田教授の研究成果を得ることができるのですが、定年退職制度を小生が遺憾に思っている点は、若い世代の人たちが、新学期( 4月)から、教授の講義を 「直接に」 拝聴することができない、という点です。

 第一級の専門家が興味を抱いて取り組んでいる テーマ は、我々 シロート にとっても、興味深い論点でしょう。そして、その テーマ を、同時代に生きている先人から、直接に聴くことができる、というのは、学問をする喜びの 1つではないでしょうか。

 音楽の 「生の」 演奏は 「here and now」 (二度と再現できない一過性) の芸術です。演奏を CD (compact dics) のなかに録音して聴くこともできますが、「生の」 演奏に比べたら、喩えれば、清涼飲料水から炭酸がぬけてしまったような感覚を、小生は抱いています。
 CD には、CD の良い点があります。CD なら、夜中に、音楽を聴くことができます--「生の」 演奏会は、そうはいかない。あるいは、すでに亡くなった演奏家の音楽は、録音された CD でしか聴くことができない。
 ただ、同時代に生きる演奏家の音楽は、できれば、「生で (直接に)」 聴きたい。肌で感じたい。 1つの伝達を構成する人たちが、同じ空間にいて、空気を伝わってくる存在感を感じたい。

 CD と 「生の」 演奏との対比は、書物と講演にも適用できるでしょうね。
 書物を読めば得られる知識しか伝達できない講義は、講師にとっても、聴講している人たちにとっても、徒労でしかない。
 通論として まとめられた知識は、10年程度では、大きな変化をしない。とすれば、講義のなかで通論を述べるなら、講義は、10年前の中味と、ほぼ、同じままでも、成立する、ということでしょうね。したがって、講師の力量が拙ければ、退屈な講義になってしまう、ということです。

 しかし、基礎を教えるというのは--そして、礎石として成立している基礎が、どのような 「構造」 になっているのか、というふうに、「からくり」 をしゃべるとなれば、--第一級の専門家しかできない、というのが、正しい。

 コンピュータ 業界では、データベース 設計技術を教える際、(コッド 氏の論文を読んだことがない、セット・アット・ア・タイム 法の 「からくり」 を知らない)人たちが セミナー 講師になっている現状を観ていて、小生はあきれ返っていますし 虚しさを感じています。こんな現状では、データベース の凄さ・怖さを教えることはできないでしょう。

 コンピュータ 業界では、SE の質が低下したことを嘆いている割には、教育が軽視されている現状を観て、小生は怒りを感じています。実地の仕事に比べて、教育を、一段低くみなしている考えかたに対して、小生は怒りを感じています。仕事の品質 (SE の力量) が問題視されているにもかからず、教育を、一段低くみなす考えかたは、正常ではない。
 専門家は、もっと、教育を考えていただきたい。

 機会があれば、篠田教授の御講演を お聴きください。
 最先端の研究をなさっている専門家が、どれほど、教育に対する熱意を抱いていらっしゃるか、という点を お聴き下さい。小生が、自らの仕事を中途にしたままでも、参加したほどの講演ですから。
 篠田教授が、最終講義のなかで、締め括りとして おっしゃった御言葉を以下に転載しておきます。

    IT時代に住むわれわれは、いくら立派な研究をしても、いくら立派な仕事をして
   も、いくら立派な考えを抱いていても、書いて発表しない限り誰も認めてくれない。
   伝達したい内容が複雑になればなるほど「論理的に書けなければ論理的な英語など
   話せない」ことに気付く。
    現在の日本の英語教育が国際社会で通用する日本人の養成を目的とするならば、
   また、現在の日本における大学英語教育を真剣に考えるならば、論理構成を中心に
   した発信型のESP (English for Specific Purposes) の指導が急務といえよう。

                [ 最終講義「Technical Communication の現状と展望」]

 
 「論理的に書けなければ論理的な英語など話せない」 ということを、「ブロークン でも通じれば良い」と間違って考えている「実践派」 と称している人たちは、再考してみればよい。「ブロークン でも通じれば良い」 というのは、我々 コンピュータ 業界のなかでいえば、「システム は動けばよい」という開き直りの態度と同じでしょうね。

 (2004年1月26日)

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