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You're barking up the wrong tree.

 
 モデルと自然言語に関して、最大限に悩んだ哲学者が、ウィトゲンシュタイン氏だったのでないでしょうか。彼の伝記が映画にもなったそうですが、僕は、その映画を「意識的に」観ていない。というのは、映画としてストーリーを構成するために、「歴史的な事実」とは違う描写が多いそうですから。ただ、その映画の最後にほうで、(ウィトゲンシュタインの友人だった) ケインズ氏 (経済学者) が、臨終間際のウィトゲンシュタイン氏を看取りながら、以下のように言うそうです--だいたい、この描写自体が、「事実」ではない。

   或る天才的な哲学者がいて、彼は、いままで、だれも作ったことのない美しい氷の
   宮殿を建てた。氷の上でスケートをすれば、滑らかに進むことができた。そして、
   それが「世界」だ、と彼は思っていた。しかし、彼は、大地の上で、スケートを
   したら、スケート靴と大地の間には、摩擦があって、滑らかに進むことができない
   ことに気づいた。そして、このゴツゴツとした大地こそが、「世界」であることに
   気づいた。

 
 このセリフのなかで言及されている「天才的な哲学者」というのは、ウィトゲンシュタイン氏であることが、直ぐに、わかりますね。「美しい氷の宮殿」が、「論理哲学論考」です。そして、「ゴツゴツとした大地」が、「哲学探究」です。ただ、非常に大切な点が、「哲学探究」は、「論理哲学論考」を読んでいなければ理解できない、という点です。拙著「論理データベース論考」の第14章「参考文献」のなかで、僕は、以下のように綴っています。

   「論考」は、確実な端正な体系の中で、小気味よいリズムを打つように、
   切れ味鋭く論点に迫っている感じを得るが、「探究」は、留めがないような
   断章の羅列にしか映らないであろう。

   「探究」が辿り着いた「言語ゲームの規則準拠性」と、数学の規則準拠性の
   違いを把握しなければ、「言語ゲーム」 (意味の使用説) は誤解され骨抜き
   にされて、理解を厳密に説明することを回避するための「いい加減な言い訳」
   としか映らない危険性に陥る。

 
 さて、ラッセル氏ですら、「哲学探究」を最初に読んだとき、「天才 (ウィトゲンシュタイン) が凡夫に成り下がった」と誤解したほど、「哲学探究」は難解な書物です。

 ウィトゲンシュタイン氏は、当時、数年を費やして、「数学の基礎 (集合論)」を研究しています--もっとも、数学の専門家から観れば、いくら天才的な哲学者でも、数学の1人のシロートにすぎないのですが、、、。ただ、数学に対して、ウィトゲンシュタイン氏が研究の対象にしていたのは、(数学を外側から観て、) 数学の「モノの見かた」です--数学の専門家としての「技術」を学習した訳ではないのです。

 そして、「哲学探究」を著したウィトゲンシュタイン氏は、「哲学を葬り去った」最後の哲学者と言われています。ウィトゲンシュタイン氏が「哲学探究」のなかで提示した主題は、「蠅獲り壺 (哲学、形而上学) に陥った蠅を救う」ことでした。そのために、彼の哲学は、「治癒の哲学」とも言われています。

 「哲学探究」が提示した世界を、ひとこと で言い表すことはできない。でも、ぜひとも、「哲学探究」を読んでください。「哲学探究」を、直接、読んで、哲学を葬り去ったと云われている哲学者が、論点にした対象を考えてください。「哲学探究」は、思想の歴史を変えた天才が綴った書物ですから、我々シロートが、一読して理解できるような書物ではない。読めば、悩むことになるでしょう--僕が、そうでした。おそらく、「哲学探究」の主題を理解するには、十数年を費やすことになるでしょう。

 「哲学探究」の世界を観てしまうと、「認知」は「言葉」を除いたら成立しないことが理解できるでしょう。その「言葉」が、「人工言語 (たとえば、集合論)」であれば、「規則を作る」ことができますが、「自然言語」であれば、個人は、「私的に」規則に従うことはできない。

  OOP が、アルゴリズム (人工言語) のなかで、クラスを考えることは正当です。ただし、そこで使われているクラス概念を、事業のなかで使われている情報 (自然言語) に対して転用するのは危険です。なぜなら、かならず、「合意された文法」という壁にぶつかるから。

 T字形 ER手法は、事業のなかで使われている情報 (伝達として使われている言語) を対象にして、(伝達という行為のなかで成立している)「合意」された「意味の構造」を記述することを目的としています。

  OOA のなかで、モデルを扱っている人たちが見落としている最大の点が、モデルの対象になっているのは、「自然言語」を使って伝達される情報である、という点です。もし、「自然言語」を回避しようとすれば、(「情報」を無視して) 「現実の世界」を観察しながら、「構造」を作らなければならない、ということになります。そうすれば、見事に、「論理哲学論考」が陥った罠に填ります(!)
 ウィトゲンシュタイン氏は、以下のような見事なアナロジーを提示しています。

   窓のない部屋に入って、どうやって、部屋から抜け出そうと考えあぐんでいたら、
   後方を観たら、入ってきたドアが、最初から、開いていた(!)

 
 このドアが、「日常言語 (自然言語)」であることを、彼は、「哲学探究」のなかで提示しました。そして、自然言語の「意味」が成立するためには、言語使用の前提として、「生活様式」が共有されていなければならないことを提示しました。1つの「生活様式」のなかで成立する言語の伝達 (言語を使った意味の伝達) が「言語ゲーム」です。
 したがって、1つの「言語ゲーム」を対象にして、「閉じた (完結した)」クラス図を作成することは、金輪際、できない、ということです。

 実は、モデルの論点など単純なことであって、「開かれていたドア」に気づいていない人たちが、「モデル遊び」をやっている、ということです。だから、事業のなかで、日常言語を使って仕事をしているエンドユーザは、「モデル遊び」などに参画はしない。システム・エンジニアの作ったモデルが使い物にならなけば、エンドユーザは、自らの仕事を守るために、自然言語を使ったインフォーマル・システムを作る、ということです。
 なぜなら、エンドユーザにとって、自らが渦中にいる「生活様式」は「自明のこと」だから。

 エンドユーザの間で共有されている暗黙知のなかで、確実に形式化され伝達されているのが「(一定の報告形式に準拠して、自然言語を使って記述された) 情報」です。
 境界すらわからない暗黙知を対象にしてモデルを探すことに比べたら、「情報」を対象にして事業を記述するほうが、効果的・効率的です。

 
 (2004年2月22日)

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