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A bad workman quarrels with his tools.

 
 或るプロスペクトとの会談が終わって、帰宅する列車の時刻まで2時間ほど余裕があったので、ひさしぶりに、早稲田の古本街に出向いて、古本を漁歩しました。早稲田に出向くために、タクシーを使いました。到着するまで、タクシーの運転手さんと話していました。以下は、会話の出だしです。

 運 「旦那は、海外で生活していたのですか。」
 僕 「いいえ。でも、若い頃、海外には、多々、出向いていましたが、、、でも、なぜ?」
 運 「ワセダという言い方が、英語みたいだったんで、、、
    わたしゃ、不思議に、外人を乗せることが多いんで。
    あれだね、海外に住んでいた人たちは、たいがい、神経質な顔をしているし。」
 僕 「(大笑) 僕は神経質にみえますか。」
 運 「海外に多く出向いていたそうですが、職業は、なんですか。」
 僕 「システム・エンジニアです。」
 運 「コンピュータ関係ですか?」
 僕 「ええ、データベースを設計する仕事をしています。」
 運 「へー、わたしらにゃ、むずかしいことは、わからんのですが、どういう仕事ですか。」
 僕 「んー、わかりやすく言うのは、むずかしいなあ、、、。」
 運 「早稲田の古本街にいって、コンピュータ関係の書物を探すんですか。」
 僕 「いいえ。僕は、コンピュータ関係の書物を読まない。」
 運 「?」
 僕 「哲学・数学の書物を探そうと思っています。」
 運 「哲学ですかあ?! 哲学って、いったい、どういうことをやっているんですかねえ。
    なんかの役に立つんですかあ、、、
    哲学っていうのは、訳のわからんことを言っているみたいで、、、。」
 僕 「(大笑)」

 
 さて、「哲学とは、なにか」と、改めて、問われると、返事しにくいですねえ。
 哲学の目的・意義は、哲学の「入門書」のなかで、「あたりさわりのない」記述がされていますので、その記述を、そのまま、転用してもいいのですが、転用しても、哲学の目的・意義は、理解されないでしょうね (笑)。

 僕が愛読している哲学書は、ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein, L.)、パース(Peirce, C.S.)、スピノザ(Spinoza B.)、ライプニッツ(Leibniz G.W.)の著作です--それ以外の哲学者たちの代表作も、いくつか、読んでいます。ウィトゲンシュタインの著作は、座右書です。

 僕が哲学書を読んでいると言えば、 SE たちは、おおかた、怪訝な顔をするし、ときには、「(嫌悪感を示すような) 嫌な」顔をすることもあります。おそらく、哲学書というのは、システム構築に対して、一切、関係のない「戯言 (たわごと)」集のように思われているのでしょうね。「或る意味では、」その考えかたは正しい、と思う。哲学に比べたら、数学のほうが、断然、システム構築に対して役立つ技術です。

 僕は数学を専門にしていないので、数学の目的・意義を語るほどの知識がないのですが、少なくとも、ゲーデル(Godel, K.)の論文やコーエン(Cohen, P.J.)の論文を読むと、数学も哲学を除いて考えることはできないのではないか、と思っています。プラトン主義や反プラトン主義という言いかたもされていますし。

 さて、哲学書は、システム構築に対して、「戯言集」なのかどうか、という点を考えてみましょう。たとえば、データベース設計においては、「モノと関係」の概念が論点になりますが、数学の手法を使って、1つのモデルとして提示されたのが関係モデルです。関係モデルは、第1階述語論理とセット概念を使っています。したがって、数学を知らなければ、関係モデルを理解することはできない。関係モデルは、正規形 (関係スキーマ) と代数演算 (リレーショナル代数演算) を、単純な技術として、提示することができるので、データベースを実地に作る SE にとっては、関係モデルの理論を理解しないでも、技術として、セット・アット・ア・タイム法を覚えれば、システムを作ることができる。したがって、哲学や数学を知らなくても、関係モデルを前提にして、データベースを設計することはできます。

 いっぽう、関係モデルの前提となっている直積集合の考えかたは、選択公理という観点からも解釈できます。しかし、選択公理を使えば、とたんに、哲学に抵触します(!)
 また、関係モデルでは、「意味の記述」として、従属性 (関数従属性と包含従属性) を前提にしているのですが、関係モデルを、現実の事業のなかで使われている情報に対して適用すれば、とたんに、「意味論 (semantics)」の扱いが論点になります。
 さらに、モノを、「空間 (resource系、事物)」と「時間 (event系、事象)」という視点から観たら、とたんに、「空間」と「時間」の関係という哲学に抵触します。

 統語論としてのモデルが示している「意味の記述」と「意味論」との関係や、モデルが対象としているモノの「解釈」に対して、整合的な説明を与えなければ、モデルの適用が、モデルを使う個人の価値観を立脚点として、「恣意的」になってしまいます。
 モデルとモデル化の対象とされなかった事象との関連に対して、「整合的な解釈」を得るためには、どうしても、哲学を使わなければならない。あるいは、ときに、モデルそのものを作る前提として、哲学が起点となります。

 したがって、モデルそのものを作る人にとって、数学と哲学は、不可欠の教養なのです。ただし、モデルを使う人たちにとって、(モデルが「技術」として提示されていれば、) 数学も哲学も知らなくてもいいでしょうね。モデルを使う人たちは、(モデルの無矛盾性・完全性が証明されている、という前提に立って、) モデルを取り込んだシステムが、環境の制約された合理性のなかで、できるかぎりに、効果・効率を実現するようにしなければならない。
 モデルを作る人とモデルを使う人では、仕事の目的が違うので、習得しなければならない知識も違います。

 ただ、小生が悲しいと思っている点は、モデルを使う人たちが、昨今、「モデル遊び」に夢中になっているという現状です。もし、モデルを使う際に、モデルを構成している概念を知らなければ、モデルそのものを使うことができない--単純な技術として提示されていない--、というのであれば、モデルそのものが未熟だ、ということです。

 
 (2004年3月8日)

 
[ ひとりごと、あるいは嘆き ]

 「モノと関係」に関して、哲学を勉強していたら、ついには、プラトンやアリストテレスやスコラ学派を勉強しなければならないことを、痛烈に感じています。本文のなかで列挙した哲学者たちの書物を読んで理解するだけでも、そうとうに辛い勉強なのですが、さらに、(文章として遺されている) 哲学の原点まで遡るとなれば、(哲学を専門にしていない) 僕の知力を超えてしまいます。
 そうかといって、自らが読んでいない書物のことを語る訳にもいかないし、、、。

 数年を費やして、多数の哲学書を読んで、苦労しながら研究しても、最終的には、1つの文を説明するにすぎない。
 たとえば、event と resource という概念は、「時間」と「空間」との関連に関して、「持続と瞬間」を哲学的に考えることになります。目の前で起こっている「出来事(事態)」を、「時間」と「空間」のなかで、どのように解釈するか、という点が論点になります。僕は、ホワイトヘッドが提示した「モーメント」概念に賛同して、空間は時間のなかで解釈できる、という観点を採用しています。ホワイトヘッドは、集合論を使って、自らの考えを証明しています。ホワイトヘッドの考えかたを理解するためには、(彼の著作は、難解な書物なので、) 少しずつ、確実に理解を進めるしかない。

 でも、最終的には、event とは、「(内的性質として、) 日付が帰属する」という1つの文にすれば済んでしまう概念です。苦労しながら多数の年月を費やして、哲学を勉強しても、金銭の収入を得られる訳じゃない。逆に、哲学を勉強しようとすれば、仕事する時間を犠牲にして、勉強のための多大な時間枠を獲得しなければならない。
 幸いにも、1つのモデルを作ることができれば良いのですが、膨大な努力が、結実しないこともあります。そういう苦労を僕は知っているので、モデルを作る人たちに対して、僕は親愛感を抱いています。逆に、提示されたモデルを丁寧に検討しないで、いくつかのキーワードを拾って論評して、知ったかぶりしている下衆(げす)いヤツラに対しては、強烈な嫌悪感を覚えます。

 モデル作りに「取り憑かれた」エンジニアは、貧乏である、というのが宿命のようです。




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