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He that sits well thinks ill.

 
 モデル(modeling)に関する論議が盛んなようですが、論点が、的はずれになっているようです。モデルを議論するのであれば、まず、モデルとして、以下の2点を検証しなければならないでしょうね。

 (1) 生成規則 (構文論の観点)
 (2) 指示規則 (意味論の観点)

 生成規則は、「構造」を作る手順が示されているかどうか、という論点です。生成規則が示されていなければ、モデルにはならないでしょうね。生成規則が提示されていないような作図作法は、単なる記法であって、モデルではない。
 もっとも、僕は、記法を、見下げているのではない。だれもが、同じ記法を使えば、或る人が描いた「構造」を、ほかの人は、的確に読むことができるから。ただ、モデルとして、論点にしたいのは、生成規則が提示されていなければ、(記法が同じなので、ほかの人が読むことができたとしても、) 「構造」が、「恣意的」になる、という点です。

 指示規則は、非常に、むずかしい論点です。意味論は、「真」概念を対象にします。「真」概念を考える際、以下の3つの考えかたがあるようです。

 (1) 対応説
 (2) 整合説
 (3) 実証説

 対応説は、論理学 (論理的意味論)と言語学では、考えかたが違うようです。論理学では、文の真偽値を判断する原理を目的にしているので、「(モデルの) 記号と、事実的対象との対応」が成立しているとき、そのときにかぎり、「真」とする、という考えかたです。対応説を、論理的な観点から言えば、「真」概念は、記号 (立言) が帰属している言語のなかでは判断できない、ということです。すなわち、記号 (立言) と事実的対象との対応を判断するためには、それらの対応関係を記述して、「真」を判断できる上階の言語 (メタ言語) を導入しなければならない、ということです。
 言語学的には、意味論は、語や文などの示す意味に関して、構造や体系性を研究する領域です。ただ、論理的意味論であっても、対象科学のなかで使うのなら、記号は、自然言語に変換しなければならないので、言語学的な意味論が関与してきます。論理的意味論では、構文論を主体にして、それから、意味論を考えることもできるのですが、言語学では、意味論が、まず、前提になって、それから、統語論 (構文論) が成立するようです。

 メタ言語として、クラス演算を導入したとすれば、クラス演算のなかで使われている変項 (論理式) が、事実的対象と対比されなければならない、ということです。しかも、導入されるクラス演算 (1つの論理体系) は、整合的でなければならない--つまり、導入された体系そのものが、構文論的な生成規則を提示していなければならない。言い換えれば、導入される論理体系は、意味論的前提 (指示規則) を明示した生成規則でなければならない。

 ただ、指示規則を考える際、やっかいな点は、「事実的対象」とは、いったい、どういうモノなのか、という点です。
 モデルを作る際、「事実的対象」と「モデル」のあいだには、「認識主体」が入る。つまり、ポパー氏が示したように、以下の3つの世界が成立する。

 (1) 第1世界 (事実的対象--物的世界)
 (2) 第2世界 (認識主体--心的世界)
 (3) 第3世界 (モデル--論理的世界)

 指示規則を考える際、第2世界 (認識主体) の扱いが論点になります。
 「認知」は、「生理的・心理的」な現象です。認識主体の生理的・心理的な現象が、第1世界を観て、第3世界を作る、ということは「事実」でしょう。

 論理的意味論では、第2世界と第3世界の相互関係を、「表現関係」と云って、「指示関係」とちがう、というふうに扱います。つまり、「指示関係」とは、第1世界と第3世界とのあいだに成立する関係のことをいいます。

 さて、第1世界と第3世界との対応関係 (指示関係) を検討する際、さきほど、問題提起したように、第1世界の「事実的対象」とは、いったい、どういうモノをいうのか、という点が論点になります。たとえば、自然言語を使って記述された立言 (命題) が、どのような事実的対象と対応関係が成立するのか、という点が論点になります。

 タルスキー氏が定義したように、もし、「『雪が白い』は、雪が白いとき、そのときにかぎる」としても、実は、「雪」という概念は、すでに、第3世界のなかで使われている言語使用のなかで成立している規約 (合意) ではないか、という点です。言い換えれば、「事実的対象」として、「雪は白い」が独立して成立しているのではなくて、そういう現象を、「雪が白い」というふうに記述する、という文法 (第3世界) が、すでに、成立しているのであって、そもそも文法規約に違反する立言そのもの--たとえば、「雪は赤い」--が、そもそも、無意味である、というふうに考えることもできるでしょう。

 つまり、第1世界 (の構造) と対比される形として、第3世界 (の構造) が成立しているのではないのであって、第3世界が第1世界を記述する、という考えかたです。つまり、自然言語では、しかじかの観念が、「意味」として、語用 (言語使用) のなかで充足的である、ということです。構文論や仮説を主体とする考えかた (整合説、実証説) と似ていますが、大きな違いですね。

 たとえば、(雨が降っているにもかかわらず、) 「雨が降っていない」という言明がされたとして、その言明が、「真」であるためには、言語外現象と言明を対比して、「一致」していなければ、「偽」である、ということになるのではないか、という点を主張できます (タルスキー氏的な対応説)。

 しかし、「雨が降っている」とか「雨が降っていない」という「意味」は、言語使用のなかで、成立していて、「雨が降っている」という言語外現象は、そもそも、そういう言語使用のなかで、認知されているのであって、「雨が降っている」という言語外現象と、「雨が降っていない」という言明のあいだでは、「一致」という概念は虚構であって、「賛成」あるいは「反対」という概念 (行為?) が適用される、ということも考えられます (ウィトゲンシュタイン氏的な「言語使用説」)。

 もし、モデルのなかで使われている記号が、クラス演算を前提にして、無定義語--たとえば、アルファベットのような記号--であれば、たとえ、モデルが、構文論として、整合的であっても、事実的対象との指示関係を問われることになります。しかし、もし、モデルの使う記号が、自然言語を使って記述されていれば、指示関係 (記号の意味) という点は、「記号と事実的対象との対応関係」とは違う観点を提示できるでしょうね。つまり、記号 (自然言語) の使用のなかで、ことばの「意味」が成立する、というふうに考えることもできる。しかも、言語使用は、生活様式のなかに埋め込まれた行為である、という点が特徴でしょうね。

 そして、事実的対象が、経営過程であれば、経営過程そのものが、その構造のなかで、事業過程と管理過程とをふくんでいるので--管理過程が事業過程を管理する、という構造になっているので--、事業過程を第1世界とすれば、管理過程は第3世界になるでしょう。そういう構造を「事実的対象」とする際、モデルの対象として、事業過程を対象にするのか、管理過程を対象にするのか、という点は論点になるでしょう。

 もし、事業過程を第1世界であるとすれば、管理過程は第3世界になるでしょうし、第3世界の管理過程を記述する認識主体は、システム・エンジニアでないことは確かでしょうね。というのは、管理過程は、事業過程に関与している人たちが、事業過程を、計画・進捗・批判するために、次第に作ってきた体系であって、その企業の考えかた (経営のやりかた) そのものを記述していて、システム・エンジニアが、事業過程を対象にして、あらためて、設計することなどできないから。とすれば、管理過程を、「事実的対象」にして、管理過程の「構造」を検討するほうが、的を射ているでしょうね。

 
 (2005年 2月 1日)

 

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