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Too much water drowns the miller.

 
 構文論(生成規則)として、モデルを整える際、前提となる公理の数を、できるかぎり、少なくする、という点が、最大に、むずかしい。できるかぎり、少ない公理を使って、現実的事象の「意味」を記述するための「完全な--つまり、『意味』を記述する構造が、すべて、前提となっている公理から導出される--」モデルを作らなければならない。

 モデル(言語L)では、語彙(公理)を前提にして、文法規則(定理)を適用するので、語彙が多ければ多いほど、記述は豊富になることは確かである。ただし、選ばれた語彙(公理)は、「独立性の原則」を守っていなければならない。すなわち、語彙どうしのなかで、或る語彙が、ほかの語彙から導出されてはいけない、という原則を守らなければならない--ほかの語彙(a’)が、或る語彙(a)の導出項目であれば、その語彙(a’)は、定理であって、公理にはならないから。

 しかも、現実的事実の「意味」を記述するに足る文法規則を作る語彙(の数)を選ばなければならない。そして、文法規則(および、文法規則を適用して作られた構造)は、無矛盾であって、かつ、すべて、公理および定理を前提にして導出されなければならない。
 対象科学のなかで使われるモデルは、数学の式に比べて、「完全性(completeness)」を証明しなくても良いのかもしれないけれど、少なくとも、「モデルが破綻しない」ということを--数式を使わなくても良いが、文の推論形式として--示さなければならない。

 以上に述べたような(モデルに対する)requirements を考慮して、公理の数を、できるかぎり、少なくする、という努力は、モデルを作るうえで、苦労する点である。
 数学・論理学・哲学の歴史のなかで、モデルを作る際、材料となる「語彙と文法規則」が、提示されてきた。それらは、すでに、妥当性を証明されてきたので、いまさら、われわれが、いちいち、証明しなくてもよいが、論点になるのは、対象科学のなかで使われる「観察述語」として、どのような語彙を選ぶか、という点である。

 (事業の管理過程を対象として、データベースを作る) T字形ER手法では、管理過程のなかで伝達される「情報」を対象にして、「情報」のなかで使われている語彙を「観察言語」として考えている。そして、(「情報」のなかで使われている語彙--認知番号と述語--を判断して、)個体(entity)として認知される対象に対して生成規則を適用するために、「観察述語」を、「関係の対称性・非対称性」の観点に立って、2つのカテゴリーに切り離した--性質として、「日付(できごとが起こった日)」が帰属するセットと、そうでないセットというふうに、2つのカテゴリーとした(A∨¬A)。

 排中律(A∨¬A)は、トートロジー(同語反復)である。「無限」のなかで、排中律を使うことは論点になるが、事業過程のなかで使われているデータは「有限」であって、排中律を適用できる。T字形ER手法では、「観察述語」を対象にして、(数学基礎論の語彙を除けば、)定義・公理は、以下の2つしかない。

 (1) entity である = Df 認知番号を付与された個体である。

 (2) entity は、「event」 と 「resource」の2つのメンバーから構成される (A∨¬A)。

   (2)-1 「event」である = Df 性質(述語)として、「日付」が帰属する entity である。

   (2)-1 「resource」である = Df 「event」以外の entity である。

 
 「観察述語」を、2つのカテゴリーとして整えるために--「event」 と 「resource」 という単純な概念として整えるために--、「関係の対称性・非対称性」を検討して、つねに、実地のデータベース作りのなかで、それらの概念の妥当性を験証してきた。(それらの概念の着想を得て、)現時点に至るまで、「破綻していない」が、これからも、「絶対に破綻しない」とは、言い切れない。排中律そのものは、トートロジーなので、「A∧¬A」という矛盾律とは排他的であるが、「観察述語」として、「日付」を使って、entity のサブセットを記述しているので、ひょっとしたら、今後、「event でも resource でもない」現実的事実が起こるかもしれない。

 モデルを作る際、公理の数を減らしたら、記述の豊富さが損なわれるのではないか、という不安が、つねに、つきまとう。

 
 (2005年 4月 8日)

 

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