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It is a world to see.

 

 新聞の報道では、或る大学は、学生が ウェッフ゛ を使って レホ゜ート を作成することを禁止にしているそうです。というのは、ウェッフ゛ で入手した情報を、そのまま、レホ゜ート として提示した学生が多くて、学生たちが 「考えない」 悪癖に陥っているだから、とのことです。

 この措置を (新聞で) 読んで、ぼくは憤慨しました。
 昔 (ウェッフ゛ を活用できない時代) でも、「糊と鋏」 を使って作成された「切り貼り」 レホ゜ート はありました。「引用」の多い論文などは、まさに、そうである、と言っても間違いではないでしょう。ただ、それらは、書物を資料にしているので、(図書館に足を運んで、ネタ 本となるような書物を探してきて 「手間暇を費やす」) 「糊と鋏」 的 レホ゜ート の絶対数が少なかった、というだけの話であって、インターネット さえ使えれば、すぐに、情報を入手できる時代では、たまたま、絶対数が多い、というだけのことでしょうね。

 書物を愛好する人たちは、インターネット や ウェッフ゛ を軽視する嫌いがあるようですね。情報を簡単に入手できる手段があるにもかかわらず、その使用を禁止する、という意図を、ぼくは理解できない。

 もし、学生が、インターネット や ウェッフ゛ を使って得た情報を、そのまま、流用して レホ゜ート を作成しているのであれば、そもそも、書物を読んで得た情報に対しても、同様に振る舞うでしょう--なにも、インターネット や ウェッフ゛ が、そういう態度を助長している訳ではないのであって、「考えない」 という態度は、べつの論点だと思う。そして、逆に、ウェッフ゛ のなかで得た 「情報」 の信憑性や、それらの 「情報」 を資料として使って、どのようにして 「考える」 か、という点を指導するのが 教育の役割ではないでしょうか。

 ぼくには、愚息が3人います。長男 (中学3年) と次男 (中学1年) は、宿題の レホ゜ートをこなすために、サーチ・エンシ゛ン を使って、ウェッフ゛ のなかで、「情報」を探していました。長男は、「靖国参拝」 を調べて、次男は、「郵政民営化」を調べていました。

 長男は、「靖国参拝」 に関する (日本の) 政府見解を歴史的に調べて、それらに対して、中国・韓国 (の政府) が、どのように反応したのか、という点を調べていました。長男は、共同通信社の ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ を起点にして、サーフ (surf the web) していたようです。長男の調べかたを観ていて、ぼくが感心した点は、日本政府の見解のみを まとめないで、その見解に反応した (対立する) 中国政府・韓国政府の考えかたも同等に扱っていた、という点です。つまり、賛否両論を対等に調べていました。そして、共同通信社の ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ は、そういう調査を助けるように、seminal な構成になっていました。

 次男は、「郵政民営化」 を調べていて、「日本国が (膨大な) 借金を抱えているにもかかわらず、財政が破綻しないのは、郵便貯金を利用できるからだ」 と言っていました。おとな が たじたじになるような意見を述べていました。ただ、かれは、政府の原文を理解することができないので、「NHK 週刊こども ニュース」 の ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ を読んで、「ウケうり」 していたにすぎないようです。まさに、「考えない」 で、「糊と鋏」 的 レホ゜ート です (苦笑)。そもそも、「郵政民営化」 に関して、中学1年生が 「意見・見解」 を考えることは、無理でしょうね。
 中学1年生が考えることのできる論点を、ぼくは指導すべきだったのですが、次男が、みずから、「郵政民営化」 を調べたい、と言ってきたので、かれの自発性を、ぼくは尊重しました。そういう自発性を養って、ウェッフ゛ を使うことに慣れて、ウェッフ゛ の「情報」 を、あくまで、資料として考えて、いずれ、みずからの意見を述べるようになってくれたら良い、と思う。

 もし、ぼくが、「靖国参拝」 と 「郵政民営化」 を、(ウェッフ゛上に記載されている「情報」を使わないで、) 図書館に出向いて調べるとしたら、そうとうな労力を費やすことになるでしょうね--しかも、調べる対象が、(いまだ、書物になっていないような) 最近の論点であれば、なおさらでしょうね。

 書物と ウェッフ゛ は、それぞれ、形態上、長所と弱点があります。どちらが優れているか、というような単純な比較は、そもそも、的外れなのであって、相互補完的に、上手に使うことが大切でしょうね。そして、確実に言うことができる点は、過去10年来、ウェッフ゛ は、急速に進歩してきて、影響力のある伝達手段になった、という点です。

 ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ として記載されている 「情報」 は、信憑性の怪しい類も多いのですが、テレヒ゛・新聞・雑誌 が報道する (信憑性が高いとされる) 「情報」 に比べて、1つの特徴になっている点は、スホ゜ンサー に対する配慮をしなくてもいい、という点でしょうね。つまり、「制約」 が、ほとんど、ない。ウェッフ゛ は、だれでもが発言できる自由さが特徴です。その自由さのために、記述が、いきおい、苛烈になることもあるようです。ただ、テレヒ゛・新聞・雑誌の報道に比べて、「(忌憚のない) 本音」 が綴られているのが特徴です。
 ウェッフ゛ の特徴は、BBS と フ゛ロク゛ でしょうね。BBS では、ときどき、中傷の言い合いがあったり、フ゛ロク゛ では、小学生が綴っているような 拙い作文的 フ゛ロク゛ も多いので、それらを読んでいて閉口することもあるのですが、それでも、「生 (なま) の」 意見が述べられていることを ぼくは尊重したい。そして、ウェッフ゛ 上の発言は、「生 (なま) である」 がゆえに、書物に取って替わることはできないでしょうね。というのは、書物は、「構成」 されなければならないので、多少とも、化粧を施しますから。

 ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ が (匿名の記載であっても、) 「本音」 を述べる自由参加の場であるいっぽうで、ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ が書物の替わりになることも、ぼくは望んでいます。そして、そういう ウェッフ゛・ヘ゜ーシ゛ が数多く現れてくることを、ぼくは期待しています。欧米では、図書館に所蔵されている書物を、すべて、テ゛シ゛タル 化する事業が進められているそうです。著作権の兼ねあいがあって、すべての書物を、出版直後に テ゛シ゛タル化して、無償で閲覧することはできないと思うのですが、それでも、膨大な古典を、多少の閲覧料を払って、読みたいときに読むことができる、という便宜は、人類史上、はじめての できごと でしょう。ぼくは、年齢から判断して--ぼくは、いま、52歳ですが--、その 図書館 テ゛シ゛タル化 の恩恵に浴することはないかもしれないのですが、次の世代 あるいは次の次の世代 が、そういう便益を得るようになるでしょう。図書館が家のなかに設置されている、という状態になるかもしれない。

 ぼくは、蔵書を置くために、住居とはべつに、書斎として、アハ゜ート を一室 (3DK) 借りています。アハ゜ート の賃借料は、94,000円です。貧乏な エンシ゛ニア (ぼくのこと) が、(住居の ローン 返済のほかに、) 蔵書を置くために、まいつき、それほどの支払いをしているのですから、極貧状態です。ぼくは、きっと、「知識を身近に所蔵しておきたい」 という強迫観念に囚われているので、極貧状態であっても、蔵書を手放すことができないのでしょう。
 ローン 返済と書斎の賃借料をいっしょにすれば、いまの住居に比べて、もっと、広い住居を買い替えることができるのですが、それでも、買い替えた住居の広さでは、蔵書を収蔵することができないので、いまの状態を耐え忍んでいます。

 机の後ろに並んでいる (あるいは、山積みにされている) 書物を、すべて、テ゛シ゛タル 化して、1つの (小型の) HDD のなかに収録できたらいいなあ、と思うことがあります。
 学生の頃、書物が、多数、並んでいる 「文化人」 の書斎を撮影した写真を観て、いかにも、知的な雰囲気を感じて、うらやましく思っていたのですが、いまでは、背後に並んでいる書物は、ぼくにとって、重圧でしかない。知識は、その性質として、(或る人たちが独占するのではなくて、) 「共有」 されることを目的としているはずです。

 10年ほど前に、インターネット が普及しはじめた頃、「知識は有料化できる」 ということが言われていたのですが、インターネット が普及するにつれて、知識が無償化・低廉化してきたのではないでしょうか。知識そのものを所有していることが、authority の必要条件ではなくなってきたのでしょうね。Authority という概念そのものが成立しない時代になってきたのかもしれない。そして、ソフトウェア も、フリー・ソフト や オーフ゜ン・ソース が、1つの流通形態として成立しています。

 書物は、知識の伝達手段であると同時に、著者の広告塔でもあり、印税は知識に対する報酬でもあったのですが、知識に対する報酬そのものを、根底から問い直さなければならない時代になったのかもしれないですね。

 
 (2005年 9月23日)

 

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