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He that is in hell knows not what heaven is.

 

 小生の新刊 (「テ゛ータヘ゛ース 設計論--T字形ER」) は、出版前に小生が想像したとおり、世上、賛否両論が出ました (笑)。非難の1つとして、TM が 「学問的」 過ぎるという点を、「実務的な (?)」 コンサルタント が言っているそうです (苦笑)。ぼくは、その人の非難を、或る人から聞いたので--直接に読んでいないので--、その非難に対して、どうこう言うつもりはないのですが、ただ、もし、「学問的」 とか 「実務的」 という用語が、そういうふうに使われていたとしたら、非難している システム・コンサルタント は、「学問的」 とか 「実務的」 という用語を、間違って使っているのでしょうね。

 小生も、実地の システム 作りに関与している 情報 システム・コンサルタント です。新刊に綴った程度のことを 「学問的」 であると言えば、学問を真摯に取り組んでいる研究者たちに対して、失礼 (侮辱) になるでしょうね。小生は、practitioners の 1人として、学問の上澄みを掠め取って、実地に使えるように工夫して適用したのであって、TM に関して、「学問的」 な検討はしていない。

 そして、みずからが理解できることを 「実務的」 とみなし--あるいは、使いやすいことを 「実務的」 とみなし--、みずからが理解できない あるいは 使いにくい点を 「学問的」 とみなす、というのは、practitioners が、まるで、「アホ である」 と言っているのであって、practitioners に対しても、失礼 (侮辱) になるでしょう--少なくとも、practitioners の 1人である小生は、そういう言いかたを聞いたら、practitioner として、不快です。使いやすさというのは、いったん、技術が提示されたら、実地の適用のなかで、工夫すればいい。

 学問は、時代のなかで継承されてきた上質の知識です。研究者が公表した学術論文を読んだ practitioners が、その考えかたを実地に適用できる技術として具体化しようと取り組んで、新しい技術が生まることが多い。RDB も、そうやって生まれました。

 機械の エンシ゛ン は、高度になって、一人の エンシ゛ニア が、エンシ゛ン のすべてを知り尽くして、設計できる構造ではなくなったし、現代では、工学的手法を使わなければ、設計できないでしょう。事業過程も、1960年代・1970年代に比べて、高度に精緻になって、かつ、コンヒ゜ュータ 化され、コンヒ゜ュータ のなかに組み込まれた 「事業のしくみ」 も大きな比率を占めるようになってきました。「事業のしくみ」 は、一人の システム・エンシ゛ニア (あるいは、エント゛・ユーサ゛ ですら) の認知力を超えて、高度になってきました。そういうふうに高度化した事業を対象にして、一人の システム・エンシ゛ニア が家内手工業的に 「しくみ」 を分析することなど、できる訳がない。したがって、事業を解析するには、工学的手法を援用しなければならないし、工学的手法を援用するのであれば、当然ながら、学問の知識を流用することになるでしょう。

 しかし、われわれ システム・エンシ゛ニア は、学問そのものを仕事にしているのではないので、学問の上澄みを流用して、実地に使える技術として、効果的・効率的な やりかた を工夫するのが仕事です。一人の システム・エンシ゛ニア が、みずからの理解力を超える概念を 「学問的」 として軽視するのは、みずからの力を過信した 「自惚れ」 でしかないでしょうね。

 
 (2005年12月 1日)

 

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