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It is art to hide art.

 

 哲学者 ウィトケ゛ンシュタイン (Wittgenstein L.) 氏の著作で、 「論理哲学論考」 (以下、「論考」) と 「哲学探究」 (以下、「探求」) の関係について語ることは、非常に難しいのですが、「探究」 は 「論考」 を 100% 否認したのかと考えてみれば、どうも、そう単純には言い切れない。「探求」 の 「はしがき」 では、「論考」 のなかで犯した間違いを訂正したいと彼は述べていますが、訂正の対象になった点は、「写像理論」 であって、「論考」 そのものを 100% 否認していないと私は思います。もし、「論考」 そのものを 100% 否認してしまうと、「論考」 で述べられた彼の宗教感・倫理観・美学感などが すべて 破棄されてしまいますが--「論考」 の最終 ヘ゜ーシ゛ に綴られた 「When we cannot speak about we must pass over in silence.」 (translated by D.F.Pears and B.F. McGuinness, ROUTLEDGE) という 世上 有名な ことば が彼の宗教観・倫理観・美学感を示しているのですが--、彼は、「論考」 の最終 ヘ゜ーシ゛ に示した人生観を死ぬまで貫いていたのではないでしょうか。ただ、「理想 (logic)」 に対する かれの態度は、180° 転換しました。

 かれの日記を読めば、「論考」 の最後で示した ことば が、「私は、それ (語り得ぬもの) を知っているが、ここで (「論考」) で示した やりかた では語ることができない」 という思わせぶり・高慢さの所産であって、偽善 (そういう思わせぶり・高慢さ) を消去するために、そして、まさに、その 「語り得ぬもの」 そのもののなかで、みずからの偽善を消去する壮絶な 「思考 (哲学) の実践」 が 「探求」 であったと。

 さて、「探求」 の攻撃対象となった 「写像理論」 は、もし、或る前提に立てば、いまでも、通用するのではないでしょうか。「写像理論」 は、「言語は (描かれた絵のように) 現実を写す鏡になっている」 という考えかたです。そして、「論考」 では、事実・事態・対象と像が切り離されて、事実・事態・対象は、以下のように述べられています。

  (1) 世界は事実の総計であって物の総計ではない。
  (2) 事態とは諸対象の結合である。
  (3) 対象は単純である。
  (4) 事態は相互に独立である。

 そして、像は、以下のように述べられています。

  (1) われわれは事実の像を作る。
  (2) 像の要素が対象に対応する。
  (3) 像は 1つの事実である。

 そして、命題が像を記述する文として考えられています。

  (1) 事実の論理像が思想である。
  (2) 思想とは有意義な命題である。
  (3) 命題は現実の像である。
  (4) 命題の意義とは、諸事態の成立・不成立の可能性と、その命題との
     一致・不一致である。

 TM をご存じの人たちは、以上のまとめを読んで、「おや?」 と感じられたでしょう (笑)。対象を entity として考えれば、対照表が事態を示しているのではないかと。そして、その直観は当たっています (笑)。なぜなら、私は、そういうふうに、T字形 ER手法の原型を作ったから。その いきさつ (からくり) は、「黒本 (T字形ER テ゛ータヘ゛ース 設計技法)」 の 132ヘ゜ーシ゛・133ヘ゜ーシ゛ に綴りました。
 ただし、事態は、T字形 ER手法では、対照表 (構成表) のみではなくて、entity の event として指示されることもあるという点では、ウィトケ゛ンシュタイン 氏が 「論考」 のなかで示した考えかたを、そのまま、継承している訳ではない点に注意して下さい。そのために--ウィトケ゛ンシュタイン 氏の 「写像理論」 と、それを基礎にして作ったT字形 ER手法の文法の ス゛レ が起こったために--、私が、当時、悩んだ点は、以下の 2点でした。

  (1) entity の認知
  (2) 対照表 (構成表) の性質

 (1) は、構成表あるいは関係として示されるはずの事象 (event) が、どうして、単独の entity として認知されるのかという点に対して整合的な説明を与えなければならないことを言っています。言い換えれば、T字形 ER手法が、entity を認知するために、どうして、コート゛ 体系を使うのかを説明しなければならない。そして、(2) では、構成表あるいは関係として示されるはずの事象が、どうして、上位の [ 階が 1つ上の ] 事物 (resource) を言及するのかという点に対して整合的な説明を与えなければならないことを言っています。たとえば、(銀行 コート゛ (R)、支店 コート゛ (R)、支店名称) という構成表 (対照表) が、「銀行支店」 を言及することに対して、整合的な説明を与えなければならない。

 (2) は、「技術的」 な制約事項なので--第一階の述語論理を使い、クラス 概念を使わないという技術的な前提に立っているので--、構成表が resource を言及しても [ 「F-真」 を示しても ]、TM のなかでは、resource として認知しないという説明があれば充分です。そして、その説明は、TM が提示している entity の定義に照らしても整合的です。

 ただ、(1) は、そうそう簡単な説明で済ますことができなかった。すなわち、コート゛ 体系を使うことの妥当性を証明しなければならないから。そのために、TM は、ウィトケ゛ンシュタイン 氏の 「探求」 が示した 「言語 ケ゛ーム」 の考えかたに立脚点を移して、「合意」 概念および語-言語の 「意味」 が成立する正当化条件を示すことにしました。その作業のなかで、カルナッフ゜ 氏が語った以下の ことば が TM の考えかたを代弁してくれていたので、「赤本 (テ゛ータヘ゛ース 設計論--T字形ER)」 のなかで--理論編の扉で--引用しました。

  確実な定式化は、間主観的に、「対象 (Objekt)」 の変わりとして 「語 (Wort)」 に
  ついて語り、「事態」 の代わりとして 「言明」 について語る。

 ただ、この作業は、想像していた以上に、難しい作業でした。というのは、「科学的な」 考えかたとして、モテ゛ル の考えかた (ホ゜ハ゜ー 氏を参考にしました) や、意味論の考えかた (カルナッフ゜ 氏を参考にしました) や、それらの考えかたを経営過程 (事業過程・管理過程・組織過程) に適用したら どうなるのかという点を検討しなければならなかったから。

 その作業過程は、まず、「論理 テ゛ータヘ゛ース 論考」 として、技術を検討して、次に、「赤本」 として、意味論を検討して、TM を構文論・意味論の観点から再検討しました。ところが、構文論・意味論を検討したら、対照表 (構成表) の性質が、際立って、構文論・意味論の 「境界線」 となることがわかってきたのです。

 対照表 (構成表) は、そもそも、「真理値表」 として導入されました。すなわち、resource のあいだに成立する事態を示す手段 (技術的には、成立・不成立の組を検討する構成表) として導入されました。その使いかたで終わるかぎり、対照表は構文論上の文法を適用すれば良いのですが--すなわち、resource どうしのあいだであろうが、resource と event のあいだであろうが、event どうしのあいだであろうが、対照表を作成するとすれば良いのですが--対照表は、意味論上、resource どうしのあいだに成立する 「関係」 を言及するので、「event」 的な性質を帯びています。意味論を導入すれば、さらに、やっかいな点は、対照表が 「resource」 的な性質を言及することもあるという点です。
 構文論と意味論をごっちゃにしたくなかったので、対照表に関して、以下の 2つの前提を導入しました。

  (1) 構文論上、対照表は、「resource」 的な文法を適用する。
  (2) 意味論上、対照表は、「event」 を言及する。

 (1) は、entity の性質について、説明を添えないと、誤解されるきらいがありますね。aRb では、a および b を、実体主義的な観点に立って、「resource」 と考え、R を 「event」 として考えます。ただ、「event」 が (語-言語の使いかた--コート゛ 体系--では、) 単独の entity として認知されることがあるのですが、構成表のなかで示されている resource が event に 「関与 (imgression)」 すると考えます。したがって、「対照表 + event」 では、対照表の (R) を event のほうに送るとします。それらの具体例は、後日 (4月 1日)、「テ゛ータ 解析に関する FAQ」 のなかで示します。

 
 (2006年 2月23日)

 

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