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He is a bad musician that can sing but one song.

 

 私は、終日、机に向かって、学習に専念することを苦にしません。いっぽうで、あちこちの町を旅することも好きです。知らない町を旅すれば、思考が盛んに走ります。たぶん、知らない町で眼にする風景・事物などが、みずからの FOR (Frame of Reference、知識体系) に対して、刺激を及ぼすので、思考が盛んになるのでしょうね。

 Voice recorder や手帖のなかに記録される着想の数が多いのは、たいがい、出張中のときです。それらの着想の多くは、のちのち、丁寧に検討してみたら、反例・反証が出てきて、単なる思いつきにすぎないのですが、たまに、「妥当な意見」 として整えられることもあります。「反 コンヒ゜ュータ 的断章」 の エッセー の幾編かは、そういうふうにして形になりました。

 さて、同じような現象は、書物にも当てはまるように思います。すなわち、みずからの専門領域のほかに、ほかのさまざまな学問領域を旅してみてはどうでしょうか。私のことを言えば、私は テ゛ータヘ゛ース・エンシ゛ニア (および、情報 システム・コンサルタント) ですが、数学・哲学・仏教・歴史・文学・音楽というふうに、色々な土地を訪ねてきました。ケ゛ーテ゛ル・ウィトケ゛ンシュタイン・道元禅師・モーツァルトなどの天才たちから話を伺うというのは愉しい機会です。あるいは、財務管理・生産管理の文献を読んで、それぞれの領域では、どういう見かたをして、どういう技術を使っているのかを教えてもらうのも、愉しい機会です。そして、実地の仕事に従事している practitioners から、かれらが技術を どういうふうに工夫して使っているのかを教えてもらうのも、愉しい機会です。

 そういうさまざまな人たちから聞いた話を、なんとかして、みずからの技術のなかに取り込もうなどという下衆 (げす) い態度で、私は、そういう人たちと会っている訳じゃないのであって、世の中には、数多くの考えかた・技術があることを知るのが愉しいのです。

 かつて (20歳代の頃)、「私以外は、皆、先生」 という ことば を眼にしたことがあったのですが--たしか、小説家の吉川英治さんの ことば だったと記憶していますが--、その ことば を観て、「不愉快」 な気持ちになったことを覚えています。「不愉快」 な気持ちになった理由は、たぶん、それほどの謙虚な態度など 「作り物」 に過ぎないと、当時、判断したからでしょう。しかし、いまなら、その ことば を共感できます。

 私は 「真理論」 を学習しましたが、「真」 という概念は、非常に難しい概念です。或る1つの前提から、無矛盾な公理系を いくつか作ることができます。矛盾を犯している推論は間違いですが、正しい推論は、1つしかないと思い込むのは危険です。無矛盾な推論が、複数、あるのならば、「...のみが正しい」 という言いかたは、ことば の間違った使いかたでしょうね。「...という考えかたもある」 というのが正しい。

 
 (2006年 4月 8日)

 

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