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Learn not, and know not.

 

 私は、仕事がら、数多くの様々な企業のなかに入って、データベース 作りを お手伝いしてきました。私の仕事は、データベース 作りとか コンピュータ・システム 作りに関する 「技術」 を指導することが主たる中身ですが、いっぽうで、「プロジェクト」 とか 「組織」 のなかで蠢いている生々しい人間関係の渦中にまきこまれることも、多々、起こります。
 私は、コンサルタントという仕事をやっていますので、仕事のなかで入手した情報を ほかの場所で 口外しないのですが、企業の外 (そと) には現れない・組織のなかでの生々しい人間関係を まざまざと観てきました。

 「うまくいっている」 企業というのは、仕事場 (workplace) が静かです。というのは、仕事が ルーチン 化されているので、だれが、どういう手続きを、どのようにして進めるのか が具体的になっているから。
 「うまくいっている」 というふうに括弧書きしたのは、「環境の変化に対応して、事業を調整する」 ことや 「新しい事業を起こして、新しい マーケット を作る」 ことが実現されていることをいい、かつ、それらの事業が、(成長段階に入ったときに、) ルーチン 化されているという意味です。

 ただ、ルーチン 化は、もし、環境の変化に対する適応を疎かにしたら、じわじわと 形骸化に陥ります。大きな組織というのは、ルーチン 化された手続きが網のように広範に張りめぐらされているので、環境の変化に対応するために、ルーチン 化された手続きを変更・調整するには、膨大な労力を要します。

 そして、そういう組織が、もし、かつて、大きな成功を経験していたら、過去の成功体験を ルーチン 化した手続きが、うっかりすると--成功体験が強烈であればあるほど、あるいは、いままで、右上がりの継続的な伸びを経験してきていればいるほど--、今の環境のなかに潜んでいる変化の兆しを軽視するかもしれない。環境の変化と成功体験がズレてきて戸惑いを感じたときでも、社員たちは、みずからの不安を抑えるために、「いままで、この やりかた で ちゃんと対応できた」 と、みずからの やりかた が正しいことを鼓舞するかもしれない。

 事業の有用性が環境の変化に対して次第に乖離しているにもかかわらず、いっぽうで、事業を担っている社員たちが いままで達成してきた成功に対して自負を抱いているような組織は、組織の外 (そと) にいるわれわれには、まず、わからない。というのは、事業が環境に対して的確に適応しているかどうかは、実 データ を正確に分析しなければわからないから。言い換えれば、要求分析を実際にやってみて、はじめて わかることです。
 もし、事業の有用性が環境の変化に対して次第に乖離していても、社員たちが いままで達成してきた成功に対して自負を抱いていても、われわれ コンサルタント が要求分析のなかで感知した問題点を述べた際に、社員たちが現状を 「改善」 する熱意に満ちていれば、われわれ コンサルタント は、その企業と契約して改善案を実現するように全力を尽くします。

 ただし、社員たちが いままで達成してきた成功に対して自負を抱いたまま、「外 (そと) からきた コンサルタント が、この事業をやったこともないくせに」 と侮れば、われわれ コンサルタントは契約しない。われわれ コンサルタント は、「(その事業のなかで使われてきた) 実 データ」 を凝視しているのであって、われわれの思い込みで--あるいは、われわれの過去の経験で--事業に対して意見を述べているのではない。

 事業の有用性が環境の変化に対して次第に乖離しているにもかかわらず、いっぽうで、事業を担っている社員たちが いままで達成してきた成功に対して自負を抱いているような組織では、もし、手続きが ルーチン 化されているのであれば、手続きの力と社員自身の実力を混同してしまっているようです。そういう混同現象を、I さんは、以下のように見事に撃ち抜いています--実は、この エッセーは、I さんの以下の意見を賛嘆して綴ることにしたのですが (笑)。

  「何年か会社に居て ダメ を固めた様な、しかし何者かになったつもり」

 
 もし、手続きが ルーチン 化されていなくて、一人の 「英雄」 が事業の正否を担っているのなら、もう、企業として論外でしょうね。なぜなら、組織になっていないから。

 
 (2006年 6月 8日)

 

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