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Repeated reading makes the meaning clear.

 

 私が、高校教育を振り返って、愉しかった授業は、国語の教師が、「読む」 ということは、どういうことなのか、という点を、「山月記」 (中島敦 作) を材料にして指導してくださった授業でした。
 その教師は、生徒に対して、中島敦が、作品のなかに込めた 「思い」 を、なんとか、読み取らせようと、(教師は、生徒を上手に誘導しながら--笑) 指導していました。「段落」 の構成とか、キーワード の探しかた、ということを教えないで、中島敦の 「思い」 を 「鷲掴み」 にするよう巧みに指導していました。私は、いまでも、その授業を思い返すことができる。

 「表現法」 は技術だから、逆に、書物を読むためには、的確な技術を習得しなければならないのだけれど、いっぽうで、作家の 「思い」 を鷲掴みにするやりかたも、大切だな、と感じました。なぜなら、作家は、そもそも、その 「思い」 を伝えるために、技術を使うのだから。

 近代・現代の文学のなかで 「古典」 として定評のある作品は、主題 [ plot ] を語る技術 (着想の独自性、記述の正確性、構成力) が巧みなので、「思い」 を伝える技術を学習するには、まさに、手本となります。
 作家の 「思い」 を鷲掴みにすれば、次に、その 「思い」 を的確に記述するために、作家が、どういう表現技術を使ったのか、という点を理解することは、そうそう、むずかしいことではない。
 こういう教育は、(中学校では、まだ、無理ですが、) 高校生になれば、「やらなければならない」 教育だと思う。

 そういう教育をすれば、「思い」 を、どのようにして、記述するのか、という技術を考えることになるし、「思い」 を的確に記述するためには、「推敲」 を繰り返すことになる、という点も理解できるでしょう。
 国語をきらい、という生徒が多いそうですが、国語をきらい、というのは、「『思い』 を記述する技術」 を嫌いであることと同値であって、いっぽうでは、ブログ (Web log) のように、多くの人たちが、「独り言」 を綴っていますが、おとなが綴っている ブログ のなかには、およそ、小学生の作文くらいの表現力しかないような文が綴られています (苦笑)。

 もし、こういう教育 (まず、作者の 「思い」 を鷲掴みにして、それに続いて、「思いを正確に記述する」 技術を学習する、という教育) がされていないのであれば、「物を作るという感覚」 を理解できない人たちが、多量生産される危険性が高いでしょうね。そういう感覚のない人たちは--私は、全員が、そういう感覚を体得できるとは思っていないので、せいぜい、全体の 20%くらいの人たちが、体得できれば良い、と思っているのですが--、ソフトウェア を作る際、仕様書を、まともに作成できないし、プログラム の アルゴリズム を考えることもできないのでしょう。なぜなら、「思い」 を正確に記述して 1つの まとまった作品として整えるという作業は、「論理的に考える」 ことと同値だから

 
 (2006年 6月23日)

 

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