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It is not the cowl that makes the friar.

 

 私が大学院生だった頃、文系の大学院生など修士号・博士号をもっていても 「社会」 では使い物にならないと侮られていた時代でした。いっぽうで、理系の大学院では、(文系に比べて、) 数多い博士号が授与されていました。
 現代では、大学院が数多く設置されて、大学院に進学する人たちが増えています。「社会」 のなかで使っている技術が高度化・専門化してきたので、大学院教育がもとめられているのか、それとも、大学教育の質が低下したので--30年ほど前に、すでに、「大学のレジャーセンター化」 という皮肉が言われていましたが--、大学院教育がもとめられているのか、という点を私は判断できないのですが、ただ、「社会 (workplace)」 で ふだん使われている技術の運用力に対して、大学院生が多すぎるように-- over-qualification に陥っているように--私には思われるのですが、、、。

 「教育」 に関して、或る社会学者 (Ivan Illich) は、以下の鋭い意見を述べています(参考)

    Any attempt to reform the university without attending to
    the system of which it is an integral part is like trying to do
    urban renewal in New York City from the twelfth storey up.

 新聞の報道によれば、「情報大学院」 構想が進められているそうです。「情報大学院」 は、われわれ システム・エンジニア を養成する大学院のようですので、どのような教育を施すのか注視しましょう。「ぎっしりいっぱいの空虚になった (copiosa egestas)」 高学歴 エンジニア を濫造しないように期待したいですね。あるいは、第一線で働いている エンジニア を講師として招聘して、企業が施している社員教育を 「実践教育」 と称して、そのまま、持ち込んだ大学院教育にならないことを祈っています (もし、そういう教育を施すのであれば、企業に入社してからの教育で充分ですから)。

 
(参考) Austrian sociologist. "Deschooling Society", Ch. 3.

 
 (2006年 9月16日)

 

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