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No fountain can rise higher than its source.

 

 荻生徂徠は、「世載言以遷 (世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル)」 という文を 「学則」 のなかで綴っています。「学則」 は、七つの篇から構成されていて、「世載言以遷」 は 「二」 のなかに収録されています。
 「二」 は以下の文で始まります。(参考 1)

    空間の広さは、時間の長さと同じようなものである。時間の長さは、空間の広さと
   同じようなものである。だから今の言葉で昔の言葉を眺め、昔の言葉で今の言葉を
   眺めるときは、いずれも異民族の鳥のさえずるようなわけのわからぬものとなるで
   あろう。

 徂徠は、「学則」 四 で以下のように述べています。(参考 2)

    だから学問は古代を対象とせねばならぬ。しかし、古代がなければ現代はなく、
   現代がなければ古代はない。現代も捨て去ることはできないのだ。時代は次から
   次へと続くので、どの時代でも古代になるし、どの時代でも現代であった。古代に
   通暁して基準を立て、現代を知って体得し、時代ごとの差を見きわめて推移のあと
   を観察すれば、民俗や人情について、手のひらの上において見るように明らかと
   なろう。
    そもそも古代と現代とは違っている。どのようにして その相違を見わけるか。
   具体的な事物のほかにない。事物は時代によって違い、時代は事物によって違う。

    そこに事物が存するのだから、それを記録によって調べ、その差異を知る必要
   がある。相違点を対照してみて、はじめて その時代を論ずる資格ができる。そう
   せずに、一定の はかり を設けて、それによって百代を次々と非難するなら (朱子
   の 「通鑑綱目」 に代表される宋儒の史学をさす)、しごく容易なことだ。これは
   自分の主題を軸にして その時代を問題としない態度であり、歴史など必要が
   ないことになってしまう。

 ここで云う 「事物」 とは、徂徠にとって、「六経 (中国の 6つの経書、すなわち、易経・書経・詩経・春秋・礼 (らい)・楽経の総称)」 です。

 さて、徂徠の考えを以下のように まとめることができるでしょう。

  (1) 言・辞 (ことば) の意味は、文脈のなかで示される。
  (2) 言・辞と事 (事態) を切り離して、言・辞のみを弄んではいけない。
  (3) 私才で事物を計らってはいけない。
  (4) 「知る」 とは、2つの事物を対比して、相違点を認識することである。

 こういうふうに まとめてみれば、「なにをいまさら」 と苦笑されそうですが、キーワード のみを多数知って物事を知ったつもりになっている人たちが多いように感じるので--私も、うっかりすると、その罠に陥ってしまうので--、自戒を込めて、徂徠の考えかたを まとめてみました。もう一つ、自戒を込めて、

  議論のなかに権威ある典籍を引用する人は、知性を用いないで記憶を用いる人である。
  (レオナルド・ダ・ヴィンチ、「手記」)

 


(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    89 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

(参考 2) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    92 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

 
 (2007年 4月 8日)

 

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