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It's the principle of the thing.

 

 荻生徂徠は、「答問書」 の中で、以下のように述べています。(参考 1)

     書籍は すなわち文章です。ですから、よく文章を理解して、書籍に書い
    てあるとおりに、自分の意見を少しも混じえないようにすれば、古えの聖人
    の意図するところは明白です。聖人の道は、聖人の道を教える方法に従わ
    ないでは体得できるはずがありません。その方法というのは、これも書籍
    に記してありますので、結局のところ、これまた文章の問題です。

     しかるに文章や字の意味も、時代に従って変化するところを注意すべき
    なのに、後世の儒者は、古文の正しい字義に拠らずに、自分の好みで勝手
    な読み方をしました。その結果、朱子のように、道徳は尊く、文章は卑しい
    ことと思い込んで、文章を軽視したので、以上のようなことに気づかず、
    気がつかないので、古えの聖人の道を教える方法が はっきりとわからず、
    自己流の知識・見識で聖人の意図を理解し体得しようとするために、みな
    自己流になってしまいます。

 徂徠は、この文で、以下の 2つのことを述べています。

  (1) 文章は、伝達の手段である。
  (2) 文の意味は、正しい字義で 「解釈」 されなければならない。

 ただ、この 「解釈」 という行為が、なかなか、難しい 「技術」 です。文を綴るためには、ちゃんとした 「技術」 を習得していなければならないと同じように、書物を読むにも、ちゃんとした 「技術」 を習得していなければならないでしょうね。私は、ここで、読書法を述べようと思っていないので、読書法については、読書法を記した書物を読んで下さい。

 私が、いま、論点にしたいのは、徂徠の ことば を そのままに借りて言えば、「道徳は尊く、文章は卑しい」 とする態度です。なお、ここでは、「道徳」 を 「行為・おこない・体験」 と言い換えても良いでしょう。徂徠は、「道徳は尊く、文章は卑しい」 とする態度を戒めていますが、私も、かれに賛同します。

 「論語 (学而篇)」 に、「巧言令色鮮し仁」 という記述がありますが、「巧言令色」 というのは、「『下手くそな』 化粧を施した悪文」 にすぎないと判断して良いでしょう。この文 (「巧言令色鮮し仁」) のなかで対比されているのは、「言 (文章)」 と 「仁 (道徳)」 ではなくて、「巧言」 という言いかたが示しているように、2つの 「ことば の使いかた」--「巧言」 と、そうでない 「言」--でしょうね。なぜなら、対偶を考えれば、「仁」 を伝える 「言」 もあるから。
 なお、ここでは、「仁」 を定義しないで、1つの定数としておきます。というのは、「仁」 は、「論語」 のなかの最大の概念であって、この ページ で論じるには大きすぎるので。

 さて、ことば が生活様式に根ざしているのであれば、じぶんの文化と相違する文化のなかで綴られた文は 「難しい (理解しにくい)」 のが当然でしょうね。
 徂徠は、上で引用した文に続いて、以下のように言っています。(参考 2)

     聖人の道も教えも、みな礼楽のように、外部的な行動にあらわれるもの
    に託してあります。その行ないさえ きちんとすれば、理論は わからなくて
    も、自然と風俗が変化してゆくところから、... (略)。

     これゆえに今日なすべき学問とは、卑近に ただ文章を会得するということ
    以外にはありません。文章を会得して古人の用いる詞が正しく理解できた
    ら、聖人の道も教えも理屈ではなく、実際的・行動的な 「わざ」 ですから
    言葉の理解につれて すぐわかるものです。ただし、外国人の古い時代の
    言葉を会得するのですから、文章を会得するということは、たいへん むずか
    しいことではあります。

 徂徠は、「『原典』 を読む」 ことを 難しいことであると言っています。確かに、文を正しい字義で読み下す努力は労力ですね。しかし、そういう努力をしないで、じぶんの読んでいる書物を 「難しい」 と非難して、理解もしないまま、我流の寸評を言っている人たちを私は ときどき 観てきました。私の書物も、多々、そういう人たちの非難の的になったそうです (笑) -- とくに、「論理 データベース 論考」が非難の的になったようです。

 「論理 データベース 論考」 を執筆した理由は、「はしがき」 と 「あとがき」 に記されています。「論理 データベース 論考」 で、私が示した点は、「構文論 (と意味論)」 の基礎技術でした。あるいは、「モデル を学習するための準備をする」 のが目的であったと言っても良いでしょう。意味論は、「論理 データベース 論考」 では充分に検討できなかったので、「論理 データベース 論考」 を出版したあとで、「赤本 (データベース 設計論)」 で まとめました。「論理 データベース 論考」 では、意味論を しっかりと検討できなかったので、「(数学基礎論の) モデル」 理論を まとめることを見送りました--ただ、いま、振り返ってみれば、モデル 理論を収録しておくべきだったと反省しています。もし、モデル 理論を収録していれば、「論理 データベース 論考」 は、的外れな非難を浴びなかったかもしれないから。

 「論理 データベース 論考」 に対する非難のなかで、「独断的」 という糾弾があったそうですが、書物のなかで綴られている説には、私の 「独断的な解釈」 など、一切、ない--ロジック (論理学) の通論を まとめただけの書物です。そして、通論を まとめて、通論に照らして、TM (T字形 ER手法) を検討して、その検討のなかで、私が pending にした項目を 「あとがき」 のなかで列挙しました。それらの pending 事項は、のちに、「赤本」 のなかで再検討しました。

 もし、「論理 データベース 論考」 が 数式を多用しているので、ロジック の知識がないひとには 「読みにくい」 というのであれば、それはそれで当然のことであって、ロジック を学習して下さいとしか私には言いようがないし、そして、なりよりも、ロジック の基礎技術を学習するために、「論理 データベース 論考」 を綴ったのですから。そして、もし、構文論・意味論を知らないひとが 「論理 データベース 論考」 を非難したのであれば、私は苦笑して、その非難をしたひとの僭越さに呆れるしかない。

 コンピュータ業界では--正確に言えば、システム 設計の いわゆる 「分析・設計」 段階では--、モデルを論じる以前に習得しておかなければならない知識 (「ロジック と集合」 の知識) が、ぽっかりと抜けてしまっているようです。だから、「経験則」 が優先されてしまうのでしょうね。「経験則」 は、構文論を前提にすれば、正しいのですが、構文論のないまま、「経験則」 を ふりかざされたら、なんら、運指法の基礎訓練をしないまま、ピアノ を演奏するのと同じ現象でしょうね。こんなことが まかり通っている仕事は、エンジニアリング というなら、根底から間違っていると思います。

 少なくとも、モデル を論じているひとが、命題論理・述語論理・集合論を知らないというのでは、語られている モデル が、いったい、正当かどうか (単なる我流にすぎないのではないか) という疑義を拭い去ることができないでしょうね。モデル は、「ききめ (実効性)」 「使いやすさ (単純性)」 および 「正しさ (整合性)」 を問われる技術であって、記法ではないでしょうに。

 もし、TM が難しいというなら、コッド 正規形を作れば良い。コッド 正規形が、どのような記法で記述していても、作られていれば、すぐに、TM に変形できるから (笑)。なぜなら、TM は、コッド 正規形に対して、意味論を 「強く」 適用した技術だから。

 


(参考 1) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    343ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。

(参考 2) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    344ページ。引用した訳文は、中野三敏 氏の訳文である。

 
 (2007年 8月 1日)

 

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