このウインドウを閉じる

Murder will out.

 

 拙著 「T字形 ER データベース 設計技法」 (「黒本」 と通称されている著作) に対して、「高慢さが芸になっていない」 というふうな酷評が、かつて、ウェッブ 上に記載されたそうです。私は、いま、「黒本」 を読み直してみて--本 ホームページ で、「『黒本』 を読む」 という エッセー を綴ってきたので、「黒本」 を再読したのですが--、「黒本」 に綴った意見を、更々、「高慢」 だと思っていないけれど、文体に対して 「生理的な嫌悪感」 を覚えます。「生理的な嫌悪感」 というのは、理屈抜きに嫌悪するという意味です。そして、「黒本」 を、今後、再読したいとは、毛頭、思わない。

 私の文体そのものは、当時と今では、それほど変わったと思っていないのですが、当時の文体に対して 「生理的な嫌悪感」 を覚えた理由は、「(或る現象・事態に対して) その実態に迫る」 式の journalese を多用しているからです。「高慢さ」 というよりも、「思わせぶり」 が露わに漂っている文体です。その文体に対して、私は、「吐き気を覚えます」--実際、私は、NHK テレビ の ニュース 番組を観ていて、「その実態に迫る」 式の言いかたが出てきたときに、理屈抜きで嫌悪感を覚えて、テレビ を消します。

 じぶんの文のなかに 「謙遜な」 ことば を入れて、「私の愚見に対して、皆さんは どう思われますか」 というように諂 (へつら) うつもりは、私には、更々、ない。「高慢」 と罵 (ののし) られても、信憑性の高い資料を前提にして、妥当な推論を守っているならば、訴えるべきことを制限しないで公表したいし、公表した意見は 「言質」 だと思っています。
 寧ろ、私が憚 (はばか) っているのは、「信憑性の高い資料」 あるいは 「妥当な推論」 のいずれかが欠落しているにもかかわらず一気に断言する態度や、「実態に迫る」 とか 「... に学べ」 という常套語を使った journalese です。

 ジャーナリスト の綴った エッセー のなかには--私は、出張のとき、新幹線・飛行機の座席に置かれている雑誌を、ときどき、拾い読みしてきて、ジャーナリスト が綴った エッセー を いくつか読んだことがあるのですが--、「... なのだ」 という journalese 臭い文体が多いので、私は、うんざりします。そういう文体には、「文を綴ることなど 『ちょろいもんさ』」 というふうに思っているような卑俗さを私は感じます。

 
 (2007年10月 8日)

 

  このウインドウを閉じる