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Everything that can be thought at all can be thought clearly. (L.W.)

 

 数学に関して、ラッセル (Bertrand Rassell) は、以下の感想を述べています。(参考 1)

    I like mathematics because it is not human and has nothing particular
    to do with this planet or with the whole accidental universe --
    because, like Spinoza's God, it won't love us in return.

 私は数学の シロート ですが、いわゆる 「数学基礎論」 に対して興味を抱いて学習してきました。そして、私は、「数学基礎論」 に対して--数学のほかの領域について私は知識がないので、ここでは、「数学基礎論」 のみに範囲を限りますが--、「解析すること、構成すること」 の愉しみを感じているのかもしれない。

 ラッセル の師であった ホワイトヘッド (A.N. Whitehead) は、数学に関して、以下の意見を述べています。(参考 2)

    Mathematics is thought moving in the sphere of complete abstraction
    from any particular instance of what it is talking about.

    The science of pure mathematics, in its modern development, may
    claim to be the most original creation of the human spirit.

 私は、高校生の頃、数学が嫌いだったので--正確に言えば、数学の 「試験の点数」 が悪かったので--、文系を選んだのですが、もし、当時、「ロジック を構成する」 たのしさを ほんのわずかでもいいから感じていたら、数学を もっと まじめに学習したでしょう。そうすれば、今頃、mathematician か logician になっていたかもしれない。あるいは、ウィトゲンシュタイン が言っている以下の意味で philosopher になっていたかも。(参考 3)

    It must set limits to what can be thought; and, in doing so, so what
    cannot be thought.
    ([ 参考 ] It は Philosophy のことです。)

    It must set limits to what cannot be thought by working outwards
    through what can be thought.

    It will signify what cannot be said, by presenting clearly what can
    be said.

    Everything that can be thought at all can be thought clearly.
    Everything that can be put into words can be put clearly.

    What we cannot speak about we must pass over in silence.

 ちなみに、ウィトゲンシュタイン は、「クラス」 概念 (the theory of classes) を認めていない。(参考 3)

    The theory of classes is completely superfluous in mathematics.
    This is connected with the fact that the generality required in
    mathematics is not accidental generality.

 というのは、かれは、「すべて」 という概念を 「真理関数」 と認めていなかったし、「数」 に関して、かれの 「数学の哲学」 は、以下のように、きわめて限られた 「有限主義」 の立場をとっています。(参考 3)

    So, in accordance with these rules, which deal with signs, we write
    the series
            x, Ω'x, Ω'Ω'x, Ω'Ω'Ω'x, ... ,
    in the following way
            Ω0'x, Ω0+1'x, Ω0+1+1'x, Ω0+1+1+1'x, ...

 数学者たちが、かれの主張を聞けば苦笑するでしょうね。というのは、空集合を起点にして、集合を使って 「数」 を構成することは、集合論では、「基本中の基本」 だから。ウィトゲンシュタイン は、流体力学を専攻していたので、数学の まったくの シロート ではないけれど--ちなみに、ウィトゲンシュタイン の 「数学の哲学」 は、ブラウワー (数学者) の直観主義に近い考えかたのようですが--、数学者たちの眼から観れば、ウィトゲンシュタイン が いくら天才的な哲学者でも数学の シロート にすぎないでしょうね。実際、ゲーデル は、有限数論のなかで、「不完全性定理」 を作っていますから。「数学の技術」 では、私は、ゲーデル のほうを信用します。ただ、ゲーデル は、「数学的存在」 を実存すると考えていたので--いわゆる 「プラトン 主義」 ということですが--、ウィトゲンシュタイン の哲学とは相いれないでしょうね。ふたりを尊敬している私は、哲学者でもないし数学者でもないので、ふたりのあいだで翻弄されているというのが正直な告白です。その 「正直な告白」 を拙著 「論理 データベース 論考」 の 「あとがき」 のなかで綴りました。

 さて、ウィトゲンシュタイン が トートロジー (あるいは、矛盾) に関して考えていた点は、「論理哲学論考」 でも 「哲学探究」 (および、「数学の基礎」) でも、一貫していています。すなわち、「ロジック そのものにおいては矛盾を避けなければならない」 という考えかたを、かれは奇妙であると考えています。言い換えれば、「演繹的命題 (公理系)」 という形式において、有意味な命題の証明が存在しうるとか、もっと、一般的に言って、ロジック そのものにおいて証明が存在しうるという考えかたを、ウィトゲンシュタイン は奇妙であると考えています。かれによれば、「ロジック は、どれも、証明の形式なのである」(参考 3)

    A propisition that has sense states something, which is shown by
    its proof to be so. In logic every proposition is the form of a proof.
    Every proposition of logic is a modus ponens represented in signs.
    (And one cannot express the modus ponens by means of a
    propostion.)

 そういうふうに考えれば、「トートロジー が矛盾を排除している」 ように考えることは、かれにとって奇妙に思われるのでしょうね。これと同じ前提で、かれは、「意味の対応説」 (語-言語と現実的事態との 「1-対-1」 対応) も認めていない。だから、かれは、「数学の基礎」 のなかで、以下のように述べています。

    いかに奇妙に思われようとも、ゲーデル の不完全性定理に関する私の課題は、
    ただ単に、「これは証明可能である、と仮定せよ」 といった命題は数学において
    は何を意味するのか、ということを明確にすることであるように見える。

 かれは、「数学者は発明家であって、発見者ではない」 と言っています。この意味において、かれは、トートロジー を 「無意味」 とみなしています--すなわち、現実的事態との指示関係はないとみなしています。だから、かれは、ゲーデル の不完全性定理を 「無意味」 とみなしています [ 「価値がない」 という意味ではない点に注意してください ]。それに対して、ゲーデル は、以下のように、反論しています。

    かれ (ウィトゲンシュタイン) が不完全性定理を理解していないことは明らか
    です。かれは、この定理を論理的 パラドックス と解釈していますが、事実は
    その正反対なのです。有限数論の中で最も議論の余地がない数学的定理
    です。

 ゲーデル のほうが、どうも、ウィトゲンシュタイン の言っている 「矛盾、無意味」 の意味を パラドックス という文脈のなかで 「早とちりして」 しているように思えるのですが、、、。ただし、私は、ゲーデル の著作では、「完全性定理」 と 「不完全性定理」 しか読んでいないので--かれの 「全集」 を読んでいないので--、かれの哲学を正確には知らない。ウィトゲンシュタイン と ゲーデル (および、タルスキ) のあいだで揺れた哲学者が カルナップ だと思います。以下の書物のなかに、カルナップ と ゲーデル との興味深い やりとり が まとめられているので、ぜひ、読んでみて下さい。

  「ゲーデル と 20世紀の論理学 (1)」、田中一之 編、東京大学出版会、
  (pp. 115 - 133)。

 カルナップ は、ウィトゲンシュタイン の以下の説に呪縛されていました。
(参考 3)

    In logical syntax the meaning of a sign should never play a role.
    It must be possible to establish logical syntax without mentioning
    the meaning of a sign: only the description of expressions may
    be presupposed. (Italic 体の強調は、原文のまま)

 すなわち、ウィトゲンシュタイン は、「論理的構文論では、記号の意味が役割を演じてならない」 と断じています。カルナップ 同様に、私も、この文に苦しめられました。というのは、私は、TM (T字形 ER手法) を、当初、ウィトゲンシュタイン の 「論理哲学論考」 を参考にして作ったのですが、TM のなかで、entity (数学的な 「項」) に対して、「『event』 と 『resource』」 という意味論的概念を導入したから。カルナップ は、ゲーデル との やりとり を通じて、「一つの言語のなかで、『(導出的な) L-真』 と 『(事実的な) F-真』 を導入して、言語のなかで、言語の構文論を記述できる」 ことを示しました。そして、カルナップ のやりかたは、私 (TM) にとって、「救い」 になりました。というのは、私 (TM) は、「経験論的な言語 L」 の規則を守って、そのなかで、文の生成規則 (構文論) を示しているから。

 論理学の証明を、ウィトゲンシュタイン は、「機械的な手段」 と みなしているようです。(参考 3)

    In logic process and result are equivalent. (Hense the absence
    of surprise.)

    Proof in logic is merely a mechanical expedient to facilitate the
    recognition of tautologies in complicated cases.

 
(参考 1) a letter to Lady Ottoline Morrell.

(参考 2) "Science and Modern World".

(参考 3) "Tractatus Logico-Philosophicus".

 
 (2007年11月 1日)

 

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