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I never could make out what those damned dots meant. (Lord Randolph Churchill)

 

 荻生徂徠は、儒学者だったので、「道」 を追究することを、生涯の目的としていました。「道」 は、具体的に、「礼楽刑政」 の制度として実現されてきて、「道」 を作った人物──先王たち (唐堯・虞舜・兎王・湯王・文王・武王・周公の七人)──が 「聖人」 である、と徂徠は考えています。そして、徂徠は、「礼」 に関して、以下のように述べています。(参考)

    善と悪とは、どちらも心について言ったものである。孟子が 「心に悪が生じると、
    政治をそこなう」 (「孟子」 公孫丑上) と言ったのは、たしかに真理といえよう。
    しかし、心には形がないので、制御することはできない。そこで先王の 「道」 は、
    「礼によって心を制御する」 (「書記」) こととした。礼を除外して心を治める方法
    を説くのは、すべて個人の頭から出たでたらめである。なぜかといえば、治める
    ものも心であり、治められるものも心となるからである。

 徂徠は仏教を否認していましたが、この文を読むかぎりでは、「禅」 の考えかたと同じで、道元禅師が示された 「威儀即仏法作法是宗旨」 に通じますね──もっとも、徂徠は、「出家」 を考えることを、毛頭、しなかった。

 さて、徂徠は、宋儒の説が (先王の示した 「礼楽刑政」 を無視して) 「抽象論」 に陥ったことを非難しています。徂徠は、「物に即した 『格物致知』」 を重視しています──ただし、朱子学の云う 「格物致知」 と違う点に注意して下さい。

 徂徠のいう 「格物致知」 は、ウィトゲンシュタイン の哲学 (後期哲学) に通じる点があります。徂徠は「道」 を追究していたので、社会制度 (政治・経済) に対して多大な興味を抱いていましたが、「和算」──ここでは、「数学」 といっても良いでしょう──に対して、どういう考えかたをしていたのか を私は知りたい。私が読んだ徂徠の著作では、「和算」 について、かれの考えかたが見当たらなかった。ちなみに、和算家であった関孝和は、1640頃に生まれて、1708年に亡くなっています。徂徠は、1666年生まれで、1728年に亡くなっています。ふたりの生涯は、20年ほどの ズレ がありますが、かれらの壮年期は同時代として重なり合っています。徂徠は、博学で知られていたので、関孝和のことを聞き及んでいなかったとは想像し難い。

 徂徠が、もし、「和算」 に関して意見を述べていて、そして、もし、「和算家は、発明家であって、発見者ではない」 と言ったとしたら──それに近い意見を述べているとしたら──、徂徠が示した古修辞学を再考しなければならないかもしれない。というか、私は、身ぶるいするでしょうね、きっと。

 徂徠が遺したすべての著作を私は読んでいないので、もし、徂徠全集を読まれたひと が この エッセー を ご覧になったら、徂徠が 「和算」 に対して、なんらかの意見を述べているかどうか ご教示いただければ幸いです。

 


(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    119 ページ。引用した訳文は、前野直彬 氏の訳文である。

 
 (2008年 1月 1日)

 

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