このウインドウを閉じる

Much cry, little wool.

 

 「思想の花びら」 のなかで、かつて、小林秀雄 氏 (文芸評論家) の以下の ことば を引用しました。

    現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、人間の言葉という
    ようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。そういう言語に
    絶する現実を前にして、言葉というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体と
    いうものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを得ないので
    あって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。

 さて、「モデル」 作りを仕事にしていると、うっかりすれば、小林秀雄 氏が指弾した罠に陥る危険性が高い。「モデル」 は、現実的事態を コンピュータ のなかに 「構成」 として実現することなので、つねに、現実的事態との指示関係を問われますが、「モデル 遊び」 に夢中になっているひとのなかには、他の 「モデル」 を借用して、借用したことが バレ ないように──あたかも、みずからが考えた 「モデル」 の装いを与えるために──、「独自の記法」 を こしらえているひとがいます。小林秀雄 氏の ことば を「借用」 すれば (笑)、「モデル に絶する現実を前にして、モデル というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに 文法というものについていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを得ないのであって、要もないのにわざわざ工夫するのではない」。

 「要もないのにわざわざ工夫した」 記法を 「original」 だと思いこんでも、豊富な現実的事態に適用してみれば、「わざわざ工夫した」 ことが単なる装飾にすぎないことが露呈するでしょうし、そういう記法は長く使われる訳がない。

 アナトール・フランス 氏 (小説家) は、以下の名言を遺しています。

    表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、すべて速かに
    古臭くなる。

 「モデル」 についても、同じことが言えるでしょうね。

 
 (2008年 3月 1日)

 

  このウインドウを閉じる