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Of a fhorn springs not a rose.

 

 荻生徂徠の著作 「政談」 を読んでいたら、以下の文を目にしました。(参考)

     家を建てたり、器物を作ったりする場合も、みな同様である。田舎の
    建築は、山で切った木を乾燥させておいて、大工を呼びよせ、何日も
    かかって建てるから、家が丈夫で、長い年月に堪えるが、江戸では何も
    かも城下の町で買いととのえ、例のせわしない気風で、急いで建てて
    しまう。その家の主人も用人も、何も知識がなく、職人や商人まかせで
    長年出入りをしている大工に見積りをさせるが、その大工も自分の住む
    家を建てた経験は一度もなく、他人の家を建てるのに熟練しているばかり
    である。自分の行きつけの材木屋で見積もってもらって間に合わせるから、
    何もかも商人まかせである。その商人も江戸で育った者で、どこで産出
    した材木が上質であるかについての見識もない。ただ江戸で売買すること
    が上手なだけである。

     そういう商人が幕府の建築を請け負ったりするが、それも要するに建築
    の基本を知らない者のすることである。商人も知らなければ、それに委託
    する役人も知らない。上手といっても、ただ江戸で そういう仕事をし慣れ
    ているというだけのことである。それを監督する役人の方では、費用が
    かさまないようにということだけを考えて、目付に監視をさせ、邪推を
    めぐらして、下の者に私利を はからせないように気をつけるのが精一杯
    で、自分自身では何も知っていないから、結局は商人にだまされて、江戸
    の城下の工事は ますます粗悪になって、その損失は言葉に尽くせない。

 「家を建てる」 というのを 「システム を作る」 として読み替えたら、、、。
 280年前に較べて、われわれは、はたして、「進歩」 したのだろうか。

 


(参考) 「荻生徂徠」、尾藤正英 責任編集、中公 バックス 日本の名著、中央公論社、
    419 ページ。引用した訳文は、尾藤正英 氏の訳文である。

 
 (2008年 3月16日)

 

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