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The horse thinks one thing, and he that saddles him another.

 

 イアン・ハッキング 氏は、かれの著作 「言語は なぜ哲学の問題になるのか」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     ウィトゲンシュタイン は意味の全盛期の中心人物であるが、この全盛期
    に対する彼の関係は両義的である。彼は私の テキスト のなかでは黒幕
    的人物 (エミナーンス・グリーズ) であって、しばしば言及はされるが
    ほとんど正面に現れることはない。(略) 彼を舞台裏に隠しておく理由の
    一つについては、第 1章の戦略のところで述べた。彼の理論は きわめて
    難解である。それは非常に強い情念を惹きおこす。その解説には何冊もの
    本を必要とする。私は難解さも、感情的高揚にともなう危険も、脇へ置いて
    おきたいと思ったのである。(略)
     ウィトゲンシュタイン の著作には、一つの奇妙な性質がつきまとっている。
    すなわち、影響と逸脱。我々は これをまず初めに、彼と ラッセル との交渉
    の内に見出す。

 
 この文に記されている意見と同じ感想を私も抱いています。
 この文のなかで記されてる 「影響と逸脱」 という ことば は、(この文の) 前後の脈絡を示さないと misleading になるでしょう。ただ、前後の文も記載すれば長い引用になるので、割愛したのですが、「影響と逸脱」 というのは、「ウィトゲンシュタイン が まわりの人たち (および、後世) に与えた影響、ならびに まわりの人たち (および、後世) が ウィトゲンシュタイン の思想を取り違いしている」 という意味です。その際だった例として、ラッセル が、まず、示されています。(本 ホームページ のほかの ページ でも言及しましたが、) ラッセル は、みずからの 「論理的原子論」 に見合うように──みずからの 「論理的原子論」 にとって都合の良いように──、ウィトゲンシュタイン の 「論理哲学論考」 を読んだようです。ウィトゲンシュタイン にとっては、ラッセル の考えかたは 「同床異夢」 でした。

 ウィトゲンシュタイン 哲学の専門家にとってさえ、ウィトゲンシュタイン の哲学は難解ですから、いわんや、われわれ シロート をや。私は、ウィトゲンシュタイン の哲学を参考にして TM (T字形 ER手法の改良版) を作りましたが、いまだに、かれの著作を読んでも、その難しさに悩まされています。

 10数年前に、ウィトゲンシュタイン の哲学を底辺にして TM の原型を作ってから、いままで、「数学基礎論」 の観点 (「モデル」 の観点、具体的には、タルスキー・ゲーデル・チューリング の観点) から検討を進めてきましたが、いま、言語哲学の観点からも検討を進めようとしています。言語哲学の領域で、私が参考にしたいと思っている哲学者は、デイヴィドソン です。モンタギュー や チョムスキー という路線も考えられるのですが、ウィトゲンシュタイン の哲学を路線にしていれば、デイヴィドソン (あるいは、ストローソン) の路線に自然と歩を進めるでしょうね。

 今後、デイヴィドソン の著作を丁寧に読んでみます。

 
(参考) 「言語は なぜ哲学の問題になるのか」、伊藤邦武 訳、勁草書房、272 ページ。
     「訳者あとがき」 で、以下のように記されています。

    そこで扱われている理論は、ホッブス、ロック、バークレー、フレーゲ、ラッセル、
    ウィトゲンシュタイン、エイヤー、クワイン、チョムスキー、ファイヤーアーベント、
    デイヴィドソン など、近世以降の主要な哲学者たちの言語理論であり、とくに
    今世紀の英米の代表的な言語哲学者の理論については、現在活躍中の
    哲学者のものを含めて、ほぼ その全貌を概観するという形になっている。
    本書は この意味で、言語哲学の総括的な流れを理解するための、英米に
    おける代表的な参考書の一つとみなされている。

 
 (2008年 4月23日)

 

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