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To fight against odds.

 

 小林秀雄 氏 (文芸批評家) は、かれの評論文 「徒然草」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

    彼には常に物が見えている。人間が見えている。見え過ぎている。どんな思想も
    意見も彼を動かすに足りぬ。評家は、彼の尚古趣味を云々するが、彼には趣味と
    いう様なものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。
    「今やうは無下に卑しくこそなりゆくめれ」 と言うが、無下に卑しくなる時勢ととも
    に現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。そういう
    ものも、しっかり見てはっきり書いている。彼の厭世観の不徹底を言うものもある
    が、「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるが故なり」 という人が厭世観なぞを
    信用している筈がない。徒然草の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と
    観察との冒険である。

 私は、かつて、「徒然草」 の全文を丁寧に読みました (本 ホームページ の 35 ページ [ 読書案内 ] を参照してください)。小林秀雄 氏は、「兼好法師が 『厭世観』 など信用している筈がない」 というふうに言い切っていますが、私も、小林秀雄 氏と同じ意見を抱いています。ただ、「沙門」 という観点から見れば、兼好法師は、「生臭入道」 であった、と私は思います──私が そういうふうに思った理由は、「徒然草」と 「正法眼蔵」 を比べてみれば、「修行 (仏の道を行ずること)」 の徹底さが兼好法師にはないことを直ぐに感知できるでしょう──寧ろ、兼好法師は、祭りを観るために、下山するほどの 「色好み」 でしたから。ただし、私は、そういう兼好法師を非難しているのではなくて、かえって、共感を覚えています。

 さて、後世の評家が兼好法師の尚古趣味を云々してきたことに対して、小林秀雄 氏は、「彼 (兼好法師) には趣味という様なものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ」 と記して、兼好法師の所思を推測しています。「古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ」 と 簡潔に綴った小林秀雄 氏の眼力を私は賛嘆しています。そして、小林秀雄 氏の この文は、文芸作品に関する批評文を超えて、学問の領域でも通用するのではないか、と私は思いました。

 「今やうは無下に卑しくこそなりゆくめれ」 というふうに兼好法師が綴った所感を 私の仕事領域に適用してみれば、(コッド 関係 モデル を離れてしまった) RDB (プロダクト としての RDB) の様が、まさに、そうであると私は感じています。RDB が辿った バージョンアップ (たとえば、テーブル 構造上で indexing を搭載し、SQL では、if-then や配列を導入したことなど) は、コッド 関係 モデル という 「古い美しい形」 を崩してしまった 「無下に卑しくこそなりゆくめれ」 の所作でしょうね。これらの拡張は、皆目、「進化」 などではない。

 「古い美しい形 (コッド 関係 モデル)」 を進めれば、かならず、論理的意味論 (「L-真」 → 「F-真」) に踏み出すことになったはずが、(コッド 関係 モデル が否認したはずの) レコード・アット・ア・タイム 法を RDB が上積みしたがために、コッド 関係 モデル が生まれて 40年弱もたったにもかかわらず、システム 設計 (分析・設計) では、あいもかわらず、オノマシオロジー 的に接近する やりかた が継続されているというのは、「進歩がない」 と言っても外れてはいないでしょうね。

 
(参考) 「古典と伝統について」 (思想との対話 6)、講談社、77 ページ。

 
 (2008年 5月16日)

 

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