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It is never too late to mend.

 

 前回の 「反 コンピュータ 的断章」 (7月 16日) の 「補遺」 で、私は、以下の文を綴りました。

     さて、私は、世間では、いわゆる 「DOA」 の本山のひとつに みなされて
    いるようです。たしかに、1980年代、私は、いわゆる 「DOA」 に属してい
    ました。しかし、1990年代の後半から、私の考えかたは変わってきて、私は
     「モデル・言語・意味」 という テーマ を追究するようになって、いわゆる
    「DOA」 とは違う路線を歩んできました。そのとき以来、私の学習対象は、
    数学基礎論・言語哲学のほうに向かっています。私は、プログラミング の
    技術を直接に研究対象にしていないという意味では、プログラミング・パラ
    ダイム で仕事していないのですが、そうかといって、「DOA」 の流派である
    というふうに見られることに対して、若干の抵抗感を覚えています。私の今の
    関心事は、事業過程・管理過程のなかで使われている 「情報」 の 「意味」
    解析にあるのであって、データベース 設計そのものには、昔 抱いていた
    ほどの興味がない──勿論、データベース 設計は、いまでも、仕事の
    いちぶにしていますが。
     私の今の仕事を一言で言えば、「論理的意味論」 の追究にある、と言って
    も良いかもしれない。

 私は、世間では、「DOA 」 とか 「RAD 」 という レッテル を張られているようですね──勿論、そういう技術を、いまでも、仕事の いちぶ にしていますが、ただし、「佐藤正美であれば、DOA および RAD である」 という仮言命題は成立しても、その逆は成立しないでしょうね。そもそも、「DOA 」 という クラス は内包的であって、はたして、外延的であるかどうかという点は疑わしいでしょうね──すなわち、「DOA 」 を性質 f (x) として、境界線の はっきりした (「帰属」 が確かに判断できる) 構成員 (メンバー) をあつめて セット (集合) を作るのは無理でしょう。もし、「DOA 」 が世間で言われているような 「データ 中心 アプローチ」 という定義であれば、「今の」 私は、明らかに、その構成員 (メンバー) にはならないでしょう。というのは、「今の」 私の仕事は、「モデル・言語・意味」 の関係を明らかにすることであって──したがって、「言語の使われかた」 を明らかにすることであって──(たとえ、言語に対応する データ が存在するとしても、) データ そのものを対象にして 「構成 (モデル)」 を考えている訳ではないので。「今の」 私の仕事は、「言語の使われかた」 を明らかにして、なんらかの 「形式的構成」 を作って、その 「形式的構成」 を、そのまま──ただし、いちぶ、調整しなければならないのですが──データベース に実装する、ということであって、データ そのものを対象にして、関係 モデル に適応する 「構成」 を作っている訳ではないので。

 「『今の』 私」 という言いかたをしましたが、上述した やりかた は、2000年に 「論理 データベース 論考」 を出版したとき、すでに、実地で、やっていました──つまり、8年以上も前に、私は、明らかに、事業過程・管理過程を 「解析」 するための接近法を変えた、ということです。しかも、この接近法は、学問上、数学基礎論・言語哲学の基本技術・基本概念を応用した やりかた であって、私の独自な技術・概念など、皆目、無い。ウェッブ 上で、TM のことを 「癖がありそう」 と批評しているひとがいるそうですが──私は、又聞きで聴いたので、ほんとうに、そう綴られているのかどうかは確認していないのですが──、前述したように、TM は、学問の 「基本中の基本」 の概念・技術を使っていて、「癖」 など、皆目、ない。寧ろ、TM を 「癖がある」 と思っているほうが癖があるのではないかしら。あるいは、コンピュータ 言語の シンタックス を知っているだけで、「言語」 ──それが、形式的言語であれ、自然言語であれ──を知っていると思いこんでいる人たちには、TM を理解するのは無理でしょうし、TM を 「癖がある」 やりかた と感じるでしょうね。

 田中一之 氏は、かれの著作 「数の体系と超準 モデル」 の 「はしがき」 のなかで、以下の文を綴っていらっしゃいます。

    また 10数年前から、基礎論の研究活動が、計算機科学への応用と テクニカル
    な抽象論に二極化されて、コア となる数学の基礎との関わりが希薄になって
    いるという批判の声が高まっていたので、それに対して私なりの答えを出したい
    という野心もあった。

 田中一之 氏 の この著作は、私が モデル を学習するときに、極めて役立った書物です。田中一之 氏が 「はしがき」 で綴っていらっしゃることを私も痛感していました。そして、私は、モデル を 「(事業過程・管理過程で伝達されている) 情報」──すなわち、自然言語で記述されている 「情報 (意味の構成)」──に対して適用してみたいと思った次第です。そして、その接近法を助けてくれたのが、学問 (数学基礎論、言語哲学) だったという次第です。学問の 「基本中の基本」 という言いかたを さきほど しましたが、専門家たちの著作も そうとうに読み込んできました。どういう専門家たちの著作を読んできたかは、本 ホームページ の 「読書案内」 に記載しているので (あるいは、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで 随時 言及してきたので) ご覧ください。それらの著作に対して 「癖のある」 読みかたをしていないつもりです。そして、そういう書物を礎石にして作られた TM が、はたして、「DOA 」 かどうかと問われたら、たぶん、「DOA 」 ではないでしょうね。

 
 (2008年 7月23日)

 

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