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He that is out at sea must either sail or sink.

 

 デイヴィドソン 氏は、彼の著作 「真理と解釈」 に収められている第一論文で、以下の文を綴っています。(参考 1)

    複合的表現の意味に関する満足のゆく理論が、あらゆる諸部分の意味として
    [ なんらかの ] 存在者を要求しなくてよいということは、いまや明らかである。
    すると、満足のゆく意味理論へのわれわれの要求を、次のように言い直すほう
    が適切である。すなわち、個々の単語は、それらが現れる文の意味に体系的な
    影響をもつという事実を超えるような いかなるいみでも、意味をもたねばなら
    ないと示唆するものでは全くない、と。実際、今の例についてわれわれは
    [ 満足のゆく意味理論を与える ] 成功の規準を次のように述べることでさらに
    改善しうる。すなわち、われわれが望んでいたのは、そしてわれわれが手に
    入れたのは、't' が ある単称名辞の構造記述によって置換され、'x' が当の
    名辞自身によって置換された場合の、「t が x を指示する」 という形式の
    どの文をも含意する理論である。さらにわれわれの理論は、基礎的な 「指示
    する」 以上の いかなる意味論的概念にも訴えずに、このことを達成したの
    である。最後に、この理論は、その論議世界に属する いかなる単称名辞に
    関しても、当の名辞が何を指示するのかを確定する ある実効的 (effective)
    手続きを明瞭に示唆しているのである。

 デイヴィドソン 氏は、タルスキー 氏が示した 「規約 T」 を擁護して(参考 2)、自然言語で記述された文に対する意味論を以下の 2点の観点で語っています。

  (1) 単語の意味は、文脈のなかで与えられる。
  (2) 「規約 T」 を 「真」 を判断する規準とする。

 ウィトゲンシュタイン 氏の哲学に対比すれば、(1) のなかで語られている 「意味 (meaning)」 は、「意味の使用説」 (ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学)で、(2) は 「意味の対応説」 (ウィトゲンシュタイン 氏の前期哲学) です。

 デイヴィドソン 氏が示した全体論的意味論は、フレーゲ 氏の考えかた (「意味」 と 「意義」) に遡ることができるでしょう。フレーゲ 氏は、「指示」 を 「意味 (sense)」 としたので、現代 使われている 「意味 (meaning)」 とは違うのですが(参考 3)、フレーゲ 氏は、文脈も重視していて、「語の意味は完全な文のなかで示される」 と述べています。フレーゲ 氏の考えかたを継承して、「意味の対応説」 を体系的に示したのが ウィトゲンシュタイン 氏の 「論理哲学論考」 です──文は現実的事態を記述して [ 文と現実的事態は、「1 対 1」 対応をしないが、それぞれ、総体として対応すると ウィトゲンシュタイン 氏は考えて ]、かつ、ひとつの複合命題は いくつかの要素命題で構成されていて、もし、すべての複合命題を構成する すべての要素命題を列挙すれば、世界の真理を記述できると考えました。この考えかたが、「写像理論 (picture theory)」 という思想と 「真理関数」 という テクニック を生みました──あるいは、この思想と この テクニック を前提にして、ウィトゲンシュタイン 氏は 「要素命題」 を考えたのですが、「要素命題」 は 「完全な文」 として考えられていました。この思想・テクニック を総称して 「意味の対応説」 と云います。ただ、かれは 「要素命題」 が いったい どういう文なのかを具体的に考えてはいなかった。

 完全な文のなかで作用する 「要素命題」 に関して疑義を抱いた ウィトゲンシュタイン 氏は、自然言語を対象にして、「語の使いかた」 に関して豊富な例を検討して──それらの例を検討した著作が 「哲学探究」 なのです──、語は現実的事態と対応するのではなくて 「文法」 (生活様式をふくむ広義の規則) のなかで 「意味」 を示すというふうに考えるようになりました。この考えかたが 「意味の使用説」 と云われ、たぶん、西洋哲学のなかで、哲学の対象を 「観念」 から 「言語」 に移し替えた転換点になったのだと思います──「たぶん」 と綴った理由は、私は哲学の専門家でないので、哲学史を詳細に調べていないので。そして、この 「意味の使用説」 は、その後の 「分析哲学」 に多大な影響を及ぼしたそうです。

 さて、私は、ウィトゲンシュタイン 氏の著作を若い頃から読み込んできて、「意味の対応説」 を借用して──コッド 氏が示した 「関係 モデル」 に対して 意味論を 「強く」 適用するために、「意味の対応説」 を借用して──、TM を作ったのですが、「意味の使用説」 とのはざまで苦しんでいました。というのは、たとえば、「カラー・コード」 で指示される 「カラー (色)」 が単独に実存するのかと云えば怪しい、、、「カラー・コード」 で指示される 「カラー (色)」 は、概念的存在であって、実存しない。でも、「カラー・コード」 は、事業過程・管理過程のなかで伝達される 「情報」 のなかで実際に使われています。この点を整合的に説明できなければ、「モデル」 は ちゃんとした規則にならない。

 「意味の対応説」 と 「意味の使用説」 のあいだで苦しんでいた私を救ってくれたのが カルナップ 氏の意味論でした。特に、かれが示した ふたつの 「真」 概念でした──構文論的な 「(導出的な) L-真」 および意味論的な 「(事実的な) F-真」 でした。そして、ヘンペル 氏が示した 「経験論的言語 L」 の体系 (語彙と文法) を学習して私が気づいた点は、考えかたを逆にすれば良いということでした。すなわち、(形式的構成の材料になる語彙として、「F-真」 を最初に捉えるのではなくて、) 関係主義的に 「ならかの」 語彙を前提にして 「文」 を構成して──文法に従った 「L-真」 を構成して──、その 「文」 が現実的事態を指示すれば 「真」 とする──すなわち、「F-真」 とする──というふうに考えれば良いと。そのときに、「なんらかの」 語彙というのが (ヘンペル 氏の云う) 「観察述語」 であって、その 「観察述語」 は、その事業過程・管理過程に関与している人たちが 「同意して使っている」 語だと。そういうふうに考えれば、「語彙と文法」 が 「真」 概念を前提にして作用できると。
 そして、その考えかたを いっそう確認できたのが デイヴィドソン 氏の言語哲学でした。デイヴィドソン 氏は、タルスキー 氏の 「規約 T」 を自然言語に対して適用できるように、以下の 「T-文」 を示しました。

      言明 p が真であるのは、時刻 t において、事態 q と対応するとき、
      そして、そのときに限る。

 そして、この 「T-文」 が、TM の 「対照表」 に対して 「F-真」 を問う テスト 文になります。デイヴィドソン 氏 (の著作) との邂逅を感謝しています。

 


(参考 1) 「真理と解釈」 (第一章、「真理と意味」)、4 ページ、野本和幸 氏訳。

(参考 2) 「規約 T」 とは、「真」 を テスト する以下の文を云います。

   文 't' が真であるのは、t であるとき、そして そのときに限る。

  たとえば、「文 『雪は白い』 が真であるのは、雪が白いとき、そして そのときに限る」。

 
(参考 3) たとえば、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、それぞれ、外延として 「金星」 を指示します。フレーゲ 氏の考えかたでは、「金星」 が 「意味」 とされ、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、「意義」 とされています。

 
 (2008年 8月16日)

 

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