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He who wills the end wills the means.

 

 デイヴィドソン 氏は、「真理と解釈」 の第三論文 「規約 T の擁護」 で以下のように述べています。(1)

    解釈されない形式体系は、意味を欠いているがゆえに、言語ではないが、
    その一方で、解釈された形式体系は自然言語によって [ 言語としての ]
    生命を与えられており、そうした体系自体は自然言語の拡大ないし断片
    と見なされるのが最も良い。

 「解釈されない形式体系」 という概念は──あるいは、「解釈」 とか 「形式体系」 という概念は──、「数学基礎論」 の知識がないと理解しにくいでしょうが、「数学基礎論」 では、「形式的公理系の解釈」 を扱う領域が 「モデル の理論」 とされています。たとえ、形式的構造のみを対象にして無矛盾性を証明したとしても、意味論を考慮しなければならない理由は、たとえば、射影幾何学において 「Pappos の定理と その双対」 で 「点」 と 「線」 の意味を入れ替えても 「意味が通じる」 という現象が起こるように、形式的構造においても 「項 (すなわち、語)」 が指示している対象を明らかにしなければならない。

 形式的体系 T の 「解釈」 とは、T = { U, R } のことです──ここで、U とは 空でない集合とし、R は U 上の関係 (2項関係) とし、述語 P を関係 R として 「解釈」 します。言い換えれば、U 上の関係 U × U に関して、述語 P を適用できるということです。そして、T の文──ただし、自由変数をふくまない──の集合を Σ とすれば、Σ のなかの任意の文 Φ が T において トートロジー (恒真) であるような 「解釈」 が成立するなら、T は Σ の 「モデル」 である、と云います。そして、そういう 「解釈」 が成立する 「モデル」 が 「形式的言語」 と云われます。ちなみに、TM (T字形 ER手法の改良版) は、関係文法のほかに、以下に示す 「『解釈』 の制約・束縛」 を置いています。

    「対照表」 の性質として、「日付」 の実 データ が存在するか、あるいは、
    「日付」 を仮想したいとき、そして、そのときに限り、「対照表」 を 「event」
    として 「解釈する」。

 遺憾ながら、この 「『解釈』 の制約・束縛」 は、関係文法でもなければ、述語 P でもない──言い換えれば、「entity」 の定義 (「event」 の定義) の延長線上で適用される規約にすぎない。あるいは、R { s1, s2 } において、関係主義を離れて、実体主義的な 「解釈」──すなわち、2項関係が 3項態になる、という 「解釈」──を適用しているとしか言いようがない。この制約・束縛の扱いを もっと追究しなければならないでしょうね。

 さて、「真理条件 (『規約 T』)」 を定立した タルスキー 氏は、自然言語で表された自然言語の意味論が パラドックス に陥ることを示唆しています。すなわち、タルスキー 氏が明らかにした 「真」 という述語の使いかたでは、自然言語のなかで使われる 「真」 は、パラドックス に陥るので、「メタ 言語」 を導入しなければならない、ということです。タルスキー 氏の意見に対して、デイヴィドソン 氏は、以下のように反論しています。(2)

    もし意味論的理論が、どれほど図式的にであれ、自然言語に当てはまる
    と主張するならば、それは その性格上 経験的でなくてはならないし、
    テスト に対して開かれているのでなければならない。

    T-文が その形式のみによって検証されるならば、そうした真理理論を
    経験的なものとして扱うことはできない。対象言語が メタ 言語に ふく
    まれると われわれが想定するときに、このようなことが起こる。この想定が
    ゆるめられると、理論は経験的なものとなり得るのである。理論が経験的
    なものとなるのは、その理論が特定の人物や グループ の発話に当て
    はまると主張される その瞬間である。

    私は、T-文が真であると要求するだけで充分だと提案したい。明らかに、
    このことは、真理述語の外延を一意に正しく決めるのに充分なのである。

 デイヴィドソン 氏が言うように 「もし意味論的理論が、どれほど図式的にであれ、自然言語に当てはまると主張するならば、それは その性格上 経験的でなくてはならないし、テスト に対して開かれているのでなければならない」 という点に私は賛同しますし、そのように、TM を整えてきました──ただし、TM を整えていたときに、私は デイヴィドソン 氏の著作を読んでいなかったので、TM を整えたあとで、かれの考えかたを知ったのですが。

 ただ、かれは 「T-文が真であると要求するだけで充分だと提案したい」 と言っていますが、TM の 「『解釈』 の制約・束縛」 を示したように、「T-文」 を TM に適用するためには、いちぶ、制約・束縛を導入しなければならないというのが現状です。TM のなかから、この制約・束縛を外すことは、たぶん、できないかもしれない、、、そして、もし、この制約・束縛を外すことができないとしたら、どうして、そういう事態が起こるのか を私は 今後 探求したい。

 
(1) 「真理と解釈」、66 ページ、金子洋之 氏訳。

(2) 同、68 ページ、金子洋之 氏訳。

 
 (2008年 9月16日)

 

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