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The more haste, the less speed.

 

 デイヴィドソン 氏は、「真理と解釈」 の第三論文 「規約 T の擁護」 で以下のように述べています。(1)

    ある モデル における真理についての理論と 「絶対的」 真理について
    の理論との間にある興味深い差異は、後者の場合、文 s 自身の内に
    含まれない材料に訴えることなく各文 s に関して真理が特徴づけられる
    のに対して、前者では そうではない、と言うことによっては──私は
    そう称してきたのであるが──記述され得ない。いままさに見てきた
    ように、その理由は、「絶対的」 真理が自然言語に応用される場合には
    相対的なものとなる、ということにある。しかしながら、差異は残るの
    であって、それこそ私が はるかに重要性を付与するような差異にほか
    ならない。T-文の具体例を検証すること、あるいは話者と時に相対化
    された理論における その代理は、なおも相当に経験的なままである。
    話者と時、対象の間で成り立つような直示行為という語用論的な概念が、
    そこでは間違いなく、何らかの役割を果すようになるであろう。しかし、
    そのような概念は、われわれが真理や意味、同義性、あるいは翻訳と
    いった概念に訴えずに説明できると考えたい概念である。モデル に
    おける真理について同じことは言えない。<規約 T> は、たとえ それが
    自然言語の やっかいな外形に適合するように ねじ曲げられたとしても、
    なお解釈の根元的理論への道を指し示しているのである。

 この文は、第三論文の締めくくりに記されている文です。そして、極めて難解な文です。

 かれの云う 「絶対的」 真理とは、「形而上学的実在論(『真理』は単独で実存するという考えかた)」のことを言及していると思われますが(2)──「絶対的」 という概念は、「相対化」 の反対概念として使われていて、「『相対化』 されないと一般に思われている」 というふうに使われているとも思われるのですが──、とりあえず、そういう真理が在るとして、その真理を Tabsolute として記号化して放っておきましょう。

 かれによれば、Tabsolute は、自然言語に応用されたときに 「相対的なものになる」 とのこと。この 「相対的」 という概念は、文字通りに、他との関係のなかで在るというふうに考えていいし、或る個体領域において正しいあるいは真なる文という概念でしょうね。そして、他との関係のなかで在るというときに、関係上、対比される 「他」 というのが 「モデル における真理」 ですね──「モデル における真理」 を Tmodel として記号化しておきましょう。そして、Tabsolute が 「相対化」 されたとしても、Tmodel との相違点がある、とのことですね。

 さて、タルスキー 氏が示した <規約 T> は、「自然言語のなかでは、自然言語を使って、『真理』 を定義することができない (その可能性が小さい)」 ことを示しました。そして、「真理」 を定義するためには、自然言語とはちがう・なんらかの 「形式的言語」 [ 自然言語を記述する メタ 言語 ] を導入しなければならないこと──メタ 言語を適切に構成できれば、「真理」 は定義できること──を示しました。しかし、メタ 言語の 「真理」 を定義するためには、さらに、その メタ 言語を記述するための メタメタ 言語を導入しなければならないでしょうね。いっぽうで、自然言語に対する モデル における真理 Tmodel が存在します──そして、この真理は、語用論的な領域では、「経験的」 な性質を帯びていますね。

 しかし、Tmodel そのものは、構文論的な 「妥当性 (カルナップ 氏流に云えば、L-真)」 を考慮しなければならないし──たとえば、論理定項に割り当たられた性質のみに基づいて一定の文が真であるということなど──、さらに、意味論的に、文 (命題) の真理関数を考えなければならないときに、解釈されない形式的体系は、意味を欠いているがゆえに言語ではないし、逆に言えば、解釈された形式的体系は自然言語によって言語として成り立っている──でしょう。語用論的な観点のみが 「真」 を実現する訳ではない──そのために、デイヴィドソン 氏は、「モデル における真理について同じことは言えない」 と言っているのでしょうね。それでも、「経験的」 という概念は、語用論的な関係のなかで 「行為」 [ 話者と時、対象のあいだで成立する直示行為 ] として考えてもいいのですが、<規約 T> を語用論的関係のなかで適用すれば、「真理」 「意味」 「同義性」 あるいは 「翻訳」 などの概念に訴えなくても、「真」 を判断できるでしょう。ただし、この 「真」 は、「自然言語の やっかいな外形に適合するように ねじ曲げられても」、「文と行為の一致」 のみで判断される性質ではなくて、「『解釈』 の根元的理論」 ──たとえば、話者の 「信念」 とか 「意図」 とか──を考慮しなければならないということを デイヴィドソン 氏は訴えています。そして、この点が、Tabsolute が 「相対化」 されたとしても、Tmodel との相違点がある、ということでしょうね。

 だから、かれは、同じ論文のなかで、以下のように注意を促しています。

    最後に、われわれが意味論に要請すべきことのすべては、それが 「規約 T」
    という基準を満たすことだ、というのは私の テーゼ ではない。私が提案したい
    のは、「規約 T」 を満足する諸理論は しばしば考えられているよりも はるか
    に大きな説明能力をもつ、ということである。だが、さらに別の規準に基づいて
    それらの理論の中で選別を行なうということはあるかもしれないし、もちろん、
    [ 理論の ] 外に在って、われわれが知りたいと思っている事柄は数多く存在
    する。

 
(1) 「真理と解釈」、70 - 71 ページ、金子洋之 氏訳。

(2) 「真理と解釈」、62 ページ、金子洋之 氏訳。

  この ページ では、タルスキー 氏の以下の文を引用しています。
  「ある個体領域において正しいあるいは真なる文という概念は、相対的な性格をもつ
   概念であり、それは絶対的な真理概念よりも遙かに大きな役割を果たしているととも
   に、それを特殊事例として含むのである」

 
 (2008年10月 1日)

 

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