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Who (are) so deaf as those who won't hear?

 

 「問わず語り」 のなかで──「『批評』 するということ」 (218 ページ)──、「批評」 という意匠を施していても、「私と同じ考えかたじゃないから嫌い」 という類の感想文を綴っている人たちには、うんざり します、と綴りましたが、小説家 三島由紀夫 氏の随筆 (「小説家の休暇」) を読んでいて、私の意見に似た文を目にしたので以下に引用します。

    要は その作品に対する自分の態度決定の問題なのだ。これは
    あたかも、何も買ふ気がなくて、百貨店へ入る客にも似てゐる。
    この客は往往、トイレット にしか用がないのだ。そんな常習犯
    の目には、九階建の デパート が、一つの大きな トイレット に
    見えてくるさうである。

 さすがに小説家の文は達意ですね。
 この文の前のほうで、以下の文が記されています。

    小説作品に対する批評家の態度ならびにその心理──。
    いつも自分の抱く理想的な小説の影像に照らして、裏切られる
    ことを予感しながら、その小説の戸口に近づき、最初の三行で
    つまづくと、もう気むづかしくなつてしまふ。

 この態度は、データ・モデル を探し回って、いくつもの 「事例 セミナー」 に顔を出している ユーザ に似た態度ですね (笑)。

 あとのほうで、以下の文が綴られています。

    あまり簡単に享楽させてくれる小説も疑はしく思ひ、あまりにも
    享楽させてくれない小説も疑はしく思ふ。あまり露はな主題が
    提示されると、小説から遊離してゐるやうに思はれ、あまり主題
    が深く隠されてゐると、不十分な気がする。適度にもたちまち飽き、
    過度にもたちまち飽きる。一生懸命の態度はみんな滑稽に見え、
    なほざりな怠惰な態度は、これまた癪にさはる。そして合評会に
    おいて、われわれの意見がうまく一致する作品は、きまつて一種の
    「人生的な芸」 とでもいふもので綴られた小説である。その実
    われわれはこの種の小説を、決してありがたいとは思つてゐない
    のである。

 この文のなかの語について、「享楽させてくれる」 を 「成功事例を示してくれる」 とか 「簡単に理解できる」 というふうに読み替えて、「小説・作品」 を 「モデル」 に読み替え、「主題」 を 「事例」 に読み替え、「人生的な芸」 を 「経験的な ワザ」 に読み替えてみてください。

 そもそも、モデル とは、形式的構成を作る文法 (あるいは、形式的言語) のことであって、モデル そのものには 「現実を変える」 ちから などないし、しかも、形式的構成を作るために 「経験的な ワザ」 などいらないでしょう。モデル において 「経験」 が問われるのは、形式的構成を 「読む (see)」 ときです。「読む (see)」 という行為は、「解釈 (interpretation)」 のことなので、「(形式的構成を) みとめて」 と考えるべきでしょうね。自然言語で記述された 「情報」 に対して 「人生的な芸」 を盛り込むことは当然ですが、それを形式的構成に翻訳する言語では、論理法則で構成された公理系のみが基底になるのであって、形式的構成は自然言語を変形しない。だから、「(形式的構成を) みとめる」 ことができるのです。ユーザ のあいだで すでに疎通している 「意味」 を システム・エンジニア の 「人生的な芸」 で 「翻訳」 した構成は、なにがしの人生論であって、毛頭、意味論ではない。

 
 (2008年11月 8日)

 

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