このウインドウを閉じる

Sometimes clemency is cruelty, and cruelty clemency.

 

 三島由紀夫 氏は、かれの著作 「小説家の休暇」 のなかで、「巨人時代」 という興味深い概念を綴っています。

     われわれは 「知的」 な、概観的な時代に生きている。これはほとんど巨人時代
    で、(略)水素爆弾の実験も線香花火のごときものであらう。(略)
     たとへばわれわれは、水爆を企画する精神と無縁ではない。われわれが文明の
    利便として電気洗濯機を利用することと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。
    科学はさういふ風に発達して来て、精神の歴史にも関はつて来たのであり、(略)

     現代の人間概念には、おそるべき アンバランス が起つてゐる。広島の原爆の
    被災者におけるよりも、あの原爆を投下した人間に、かうした アンバランス は
    もつと強烈に意識された筈であつた。(略) しかし彼には距離があり、はるか高み
    から日本の小さな地方都市を見下ろしてゐた。(略)

     ところがかうした投下者の意識は、今日われわれの生活のどの片隅にも侵入して
    ゐて、それが気づかれないのは、習慣になつたからにすぎないのである。われわれ
    は、新聞や ラヂオ の ニュース に接したり、あるひは小さな政治問題にひそむ
    世界的な関聨に触れたり、国際聨合を論じ世界国家を夢想したりするときのみなら
    ず、ほんの日常の判断を下すときにも、知的な概観的な世界像と、人間の肉体的
    制約との アンバランス に当面して、一瞬、目をつぶつて、「小さな隠蔽」、「小さな
    抑圧」 を犯すことに馴れてしまつた。瞬間、われわれは巨人の感受性を持つてゐる
    やうな錯覚におそはれる。私が諷して巨人時代といふのは、このことを斥 (さ) す
    のだ。

 システム・エンジニア も この例外ではないでしょうね。
 三島由紀夫 氏は、上述の文のあとで、以下の文を続けています。

    われわれはただ地上を地図のやうに考へ、与へられた概観に忠実であることに
    よつてしか、世界を把握することができぬ。現代は、丁度かうして、常住飛行機に
    乗つてゐるやうなものである。諸現象は窓のかなたを飛び去り、体験は無機的に
    なり、科学的な嘔吐と目まひは、われわれの感覚を占領してしまふ。

 システム・エンジニア の問題点は、その職責において (現実に対する忠実な) 「地図」 を作成しなければならないことを忘れ去って、(事業過程・管理過程に関して) おおざっぱな 「見取図」 を描いて事態を把握したつもりになっている点にあるのではないでしょうか。
 三島由紀夫 氏は小説家なので、「体験が無機的になっていること」 を やや嘆いていますし、「科学的な嘔吐と目まひ」 という語を使っているので、「科学」 に対して やや反抗しているようですが、私は システム・エンジニア として、仕事では、「体験が無機的になる」 ことを当然だと思っていますし──それが システム・エンジニア の職責の ひとつだとさえ私は思っているのですが──、また、「体験が無機的」 でなければ、「(現実的事態に対して) 忠実な地図」 を作成することができないでしょうね。

 私は、今年 (2008年 9月)、「日本科学哲学会」 の会員になりました。会員になった理由は、TM (T字形 ER手法の改良版) を いっそう追究するために 「科学哲学」 を研鑽したかったからです。三島由紀夫 氏は、巨人時代を綴った日記風の エッセー の終わりのほうで、以下の鋭い意見を述べています。

     一方では、通信交通の発達から、精神のゆつくりとした統一と綜合の作用は
    追ひ抜かれ、哲学の使命である世界把握は、普遍的な概観的世界像によつて
    追ひ抜かれた。今日、斬新な哲学は、ニュース による世界把握の上に組立て
    られ、哲学のみが世界像の把握に到達する唯一の小径であつたやうな嘗ての
    状態は消滅した。そしてこの世界像を更新し、拡張してゆく作業を、今では
    科学が受け持つてゐるのである。

 
 (2008年12月 8日)

 

  このウインドウを閉じる