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The devil finds work for idle hands to do.

 

 三島由紀夫 氏は、かれの著作 「小説家の休暇」 のなかで、「芸術家の スランプ」 に関して興味深い意見を綴っています。

    しかしいはゆる芸術的 スランプ なるものは、十中八九、生活に原因があると私は
    診断する。三文映画や三文小説に登場する芸術家の役は、髪をかきむしり、書け
    ない書けないと絶叫し、原稿用紙や画紙や五線紙の屑をまきちらすに決まって
    ゐる。霊感に関する迷信、独創性なるものに関する迷信、浪漫派的天才の迷信が、
    かくまでも深く根を張り、通俗化してゐることには、おどろくの他はない。

    スランプ を招来しないためには、芸術制作の明らかに重要な部分を占める、手仕事
    の精神を忘れてはならない。ドイツ 語でいふ 「日々の仕事 (Tagewerk)」 の市民
    的原理を忘れてはならない。

    スランプ に関するもつとも適切な、且つもつとも月並みな教訓。
    「人事を尽さずして、天命を待つこと勿れ」

 かれのような天才にして この言あり。私は、この文を読んでいて、ロダン (彫刻家) も似たようなことを言っていたのを思い出しました。「浪漫派的天才」 とは、(三島由紀夫 氏や ロダン 氏を超えるような) 希代の天才か、あるいは、偽物かのいずれかでしょうね。ウィトゲンシュタイン 氏も、着想を ノート に コツコツ と綴って、着想を いくども 丁寧に検討していました。ウィトゲンシュタイン 氏は、講義では事前の用意しないで──講義用 レジメ を作成しないで──集中して考え語ったそうですが、かれは日頃から ノート に思考を刻んで検討していたので、講義の準備をしなかったように見えても、実際は、丁寧な準備をしていたと言っていいでしょう。

 この 「浪漫派的天才」 を装う気取りは、三島由紀夫 氏が述べているように、思いのほか通俗化していて、システム・エンジニア にも、多々、観られる現象です。私も うっかりすると、この罠に陥りそうになります。すなわち、私は、時として、事実 (ユーザ の事業過程・管理過程) を凝視しないで [ 無視して ]、「エレガント な形式的構成」 を作ろうという誘惑に駆られることがあります。事業過程・管理過程において良い点であろうが悪い点であろうが、ユーザ が使っている言語を変形しないで、形式的構成を与えるのが──すなわち、まず、事実を 「正確に」 記述することが── システム・エンジニア の 「仕事の起点」 であるはずが、往々にして、最初から事実を無視して、「改善案 (ソリューション)」 を与えようという自惚れに襲われそうになります。そういう自惚れに陥らないために、私は、「凝視せよ。そして、手で考えろ (鉛筆を持て。鉛筆で考えろ。)」 と みずからを戒めるようにしています。「エレガント な クラス 図」 などというのは、システム・エンジニア の酔心にすぎない。そして、そういう 「エレガント な クラス 図」 を描こうと意図することこそ、「浪漫派的天才」 を装う悪弊にすぎない。

 
 (2008年12月16日)

 

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