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All his geese are swans.

 

 三島由紀夫氏は、かれの著作 「『われら』 からの遁走」 のなかで以下の文を綴っています。

    しかし私は想定された観客に向つて語りかけることがいやだつた
    ので、つひぞ 「彼等」 の言葉で語つたことはなかつた。「彼等」
    に愛される言葉で語ることを避けようとする誘惑は、私の中で
    ますます強くなつた。フニャフニャ した青年たちは、いかに フニャ
    フニャ した文学表現を愛するか、そして文学の中に自分の無力
    と弱さの自己弁護の種子をしか探さないか、といふことが、私には
    経験上よくわかつてゐたので、ことさらその種の表現から遠ざかり、
    もし感傷が必要であれば、その感傷の中にこそ致死量の毒を仕込
    まうと心がけた。(又私の筆が辷っつた。前にも云つたやうに、
    文学には致死量の毒などはない)

 かれが綴っていることは、「モデル (modeling)」 についても言えるでしょうね。
 文中 「毒」 と綴られている語を、私なら、さしずめ、「数学基礎論・言語哲学」 としておきましょうか (笑)。

 三島由紀夫氏は、デビューしたての頃、雑誌 「人間」 の編集長 木村徳三氏から技術上の注意を色々とされたそうで、後に、三島氏は、「この小説の稀代の 『読み手』 から、どれだけ力づけられたかわからない。初期作品 『夜の支度』 や 『春子』 等は、ほとんど木村氏との共作と言つても過言ではないほど、氏の綿密な注意に従って書き直され補訂されたものである。思ふに新進作家と文芸雑誌の編輯者との関係は、新人 ボクサー と老練な トレーナー との関係の如くあるべきで、木村氏を得た私は実に幸運であつたが、かういふ幸運を得た作家は私ばかりではない」 と綴って木村氏に感謝しています。また、木村氏は三島氏に対して、「堅い書物を多く読みなさい」 と助言したそうで、三島氏は その助言に従って、「堅い書物」 を多数読んできたそうです。[ 訂正 ]

 私 (佐藤正美) も、同じような経験をしており、今では私の専門技術になっている データベース 技術を、20数年前 (30歳過ぎの頃) に セミナー 講師として プレゼンテーション した際、セミナー を開催なさった ソフト・リサーチ・センター 社の木村雄二郎氏から私は セミナー の中身に関して、いくども書き直され補訂されました──そういうふうにして私は育ててもらいました (それ以来、ソフト・リサーチ・センター 社とは現在に至るまで20数年のつきあいを温めてきました)。

 デビュー したての頃というのは、意気込みが溢れて、どうしても肩に力が入りすぎて、じぶんの意見を精一杯に述べることばかりに集中してしまい、たいがい、「非合理的な独自性」 に溺れてしまいがちです──それは、もっともなことで、デビュー したての頃というのは、いまだ、知識も経験も少ないので、みずからが 「正しい」 と信じている僅かな知識・経験を頼りにして世間に船出するしかないのですが。
 実地の数多い仕事のなかで経験を積んで、いっぽうで、学問の知識を次第に増やしていくには、どうしても、或る程度の年数がいるのは確かです。そうして、知識・経験を積むにしたがってはじめて、「主観的な適合感」 を離れて、物事を 「冷静に」 観て判断できるようになるんでしょうね──プロフェッショナル であれば、「冷徹に」 と云ったほうが的確な表現かもしれない。

 みずからの FOR (Frame of Reference) を増やすときに、核となる基底は 「学問」 でしょうね。人類の英知が 「学問」 として整えられてきました。たとえれば、世間に船出して、船が破損したときに、修復のために帰るべき港が 「学問」 でしょうね。

 
 (2009年 1月16日)

 
[ 訂正 ] (2009年 3月23日)

「木村氏は三島氏に対して、『堅い書物を多く読みなさい』 と助言した」 という文は、私の記憶違いであって、木村氏ではなくて、嘉治隆一氏 (当時、朝日新聞局長) です。最近、三島由紀夫氏の 「私の遍歴時代」 を読んでいて、嘉治氏が三島氏に対して、そういうふうに助言なさったことが綴られていました。私が本 エッセー を綴るときに、三島氏の原文を調べて引用しなければならなかったのですが、私の記憶に頼ったまま間違った引用をしてしまい申し訳ございません。私の引用 ミス を訂正いたします。

 

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