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...but inside you are full of hypocrisy and sins. (Matthew 23-28)

 

 「○○ に学べ」 式の janalese な フレーズ を謳い文句にした書物を私は身の毛がよだつほど毛嫌いしています。さらに、その書物の副題として、「私も、かつて、×× なほど駄目な人間だった。だが、私は、こういう やりかた で立ち直って成功した」 などと記されていると、私は、もう、反吐が出そうになります。

 来月 (2月) に拙著が出版されます。その 「はしがき」 のなかで、私は、「数学嫌いの人たちに対して、人一倍同情を感じている」 として、「私も数学が大嫌いで、高校の数学では、百点満点中 6点であったほどに、数学が苦手だった」 という告白まで綴って、「同じ苦労をしてほしくない」 とも記していますが、私は、拙著を読んでくれるであろう人たちに対して、「私は、こういう やりかた で数学を再学習して数学を物にした」 などと言うつもりは、毛頭、ない。かえって、私が その著作で執筆した中身は、読み手のほうにも、数学を そうとうに学習してほしいことを訴えています。私が執筆した中身は、あくまで、数学への 「梯子 (はしご)」 であって、数学の書物を代用するつもりは、さらさら、ない。
 そして、「(数学基礎論の モデル を学習していないくせに、いっぱしに モデル を知っているように振る舞っている連中が) 単なる画法を モデル としていることに対して私は抵抗すると 「はしがき」 のなかに記しています。

 「私も、かつて、×× なほどに駄目な人間だった」 式の書きかたを私が毛嫌いする理由は、読者に対して 「媚びている」 態度 (あるいは、ときに、己惚れ) を感じるからです。その点を三島由紀夫氏は見事に撃ち抜いています──以下に、かれの文を引用しておきます。

    私はしばしば自分の中にさういふ悪癖を感じるのだが、人に笑はれ
   まいと思ふ一念が、かへつて進んで自分を人の笑ひものに供すると
   いふ場合が、よくある。戒めなくてはならなぬ。社会生活といふもの
   は、相互に自分の弱点を提供しあひ、相互にそれを笑ふことを許し
   合つて成立してゐる。いかにも弱者の社会だが、それもやむをえぬ。
   そこで意識家のお先走りは、自分の意識しない滑稽さが人に笑はれる
   ことほど意識家の矜りを傷つけることはないから、もし新たな弱点、
   新たな滑稽さを自分の中に意識し発見すると、それが人に発見される
   よりさきに自分が発見したといふことを他人に納得させるために、
   わざわざその弱点を公共の笑ひ物に供して安心するといふやうな悪癖
   に立ちいたる。
    他人が私に対するとき、本当に彼にとつて興味のあるものは私の
   弱点だけだといふことも、たしかに事実であるが、ふしぎな己惚れが、
   この事実を過大視させ、もう一つの同じ程度にたしかな事実、「他人に
   とつて私の問題などは何ものでもない」 といふ事実のはうを忘れさせ
   てしまふことが、往々にしてある。さういふところに成立する告白文学
   ほど、醜悪なものはない。

 
 さすが、第一級の小説家は、見事な文を綴りますね。
 三島由紀夫氏は、太宰治氏の作品を毛嫌いしていましたが、以上の文を読めば、三島氏が太宰氏を毛嫌いしていた理由が明らかですね。ただし、三島氏は太宰氏の才能を認めていました。この 「醜悪」 さは、テーマ を扱う作家の態度の問題であって、いささかも、作家の才識の問題ではないでしょう。ただ、私は、画法を モデル としている連中に対しては、その才識をも疑問視しています。

 
 (2009年 1月23日)

 

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