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Too much spoils, too little does not satisfy.

 

 三島由紀夫氏は、「自己改造の試み」 という エッセー のなかで、文体について以下のように語っています。

     作家にとつての文体は、作家の ザイン を現はすものではなく、
    常に ゾルレン を現はすものだといふ考へが、終始一貫私の頭を
    離れない。つまり一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、
    ただ彼の ザイン の表示であるならば、それは彼の感性と肉体を
    表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは文体
    とはいへない。文体の特徴は、精神や知性のめざす特徴とひとしく、
    個性的であるよりも普遍的であらうとすることである。ある作品で
    採用されてゐる文体は、彼の ゾルレン の表現であり、未到達な
    ものへの知的努力の表現であるが故に、その作品の主題と関はり
    を持つことができるのだ。何故なら文学作品の主題とは、常に
    未到達なものだからだ。さういふ考へに従つて、私の文体は、
    現在あるところの私をありのままに表現しようといふ意図とは
    関係がなく、文体そのものが、私の意志や憧れや、自己改造の
    試みから出てゐる。

 ちなみに、ザイン (Sein) は 「存在、実在」 で、ゾルレン (Sollen、ゾレン とも) は 「当為 (かくあらねばならないということ)」 で、いずれも ドイツ語で哲学用語として使われています。

 私は、この文を読んで、「文体」 に関する文学的解釈を考える切っ掛けを得たいっぽうで、「文体」 という語を 「モデル」 という語に入れ替えて、「モデル」 のありかたを考えてみました。「文体」 の問題は個人事──あるいは、ひとりが他の人たちに伝える技術──ですが、「モデル」 は、そもそも、複数・多数の人たちの 「ロジック に対する同意」 の問題です。

 事業過程・管理過程を対象にした モデル は、ユーザ が使っている言語 (自然言語) を変形しないで、できるだけ機械的に [ 論理法則を使って ] 自然言語で記述されている 「意味」 に対して形式的構成を作る手続きですが、その手続きでは、まず、「事業過程・管理過程を 『正確に』 記述する」 ことが要請されています。ただ、「事業過程・管理過程を 『正確に』 記述する」 ことは、あくまで起点であって、事業過程・管理過程を 「正確に」 記述したならば、以下の点を検討しなければならない。

 (1) 事業の強み・弱み
 (2) 事業の環境適応力

 「事業過程・管理過程を 『正確に』 記述する」 を ザイン とするならば、ゾルレン は、上述した 2点を考慮して、形式的構成を修正する──したがって、その修正が事業に関与している人たちの同意を得られれば、遡って事業過程・管理過程を修正する──ことを云います。事業過程・管理過程において、ゾルレン は、「当為 (かくあらねばならないこと)」 と云えども、そして、事業に関与している人たちの 「意志や憧れや、自己改造の試みから出てゐる」 としても、「制約された合理性」 のなかで実現される 「現実解 (workable solution)」 として調整されることになります。ザイン と ゾルレン は、べつべつの外延ではなくて、ふたつは大部分まじわるというのが事業における特徴点です──そのために、ゾルレン は、具体的形態として 「改善」 の形で実施されることになるのでしょうね。

 
 (2009年 2月16日)

 

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