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An uncut gem does not sparkle.

 

 「至花道」 のなかの 「皮・肉・骨のこと」 において、世阿弥は以下の文を綴っています。(参考)

     さて、能の演戯の種類について、皮・肉・骨とは、どんなところ
    指し示しているのかというと、まず、生まれつき資質に恵まれた
    上手な演者に自然と備わった芸術的魅力が舞台に発現した
    ところを骨 (こつ) といったらよかろうか。二大基礎技術の修練
    の結果が充実した芸の力となって、三大基本役柄として見た目
    に現われたところを肉 (にく) といったらよかろうか。この才能
    と修練を発展させて、まことに安定し、しかも優美な姿かたちを
    皮 (ひ) というべきであろうか。

    (略) そうした芸位になりえた演者の舞台を見ると、ただ面白い
    という以外に表現のしようもなく、観客のすべてが意識を超越
    した感動に巻き込まれ、(略)

    (略) どう見ても弱さのない、しっかりした演戯は、骨的な才能
    のうえに年功をへた演戯が生みだす感動であり、どう見ても
    面白さが尽きることのないのは、技術の習練を積み重ねた
    内的な演戯からうける感動であり、どう見ても優雅な美しさの
    みちあふれているのは、皮的な要素を十分に身につけた芸
    からうける感動である。

 
 ちなみに、「二大基礎技術」 とは 「舞と歌」 で、「三大基本役柄」 とは 「老体・女体・軍体」 で、「二大基礎技術」 と 「三大基本役柄」 をいっしょにして 「二曲三体」 と云います──「二曲三体」 については、以前、「反 コンピュータ 的断章」 で述べました。

 「皮・肉・骨のこと」 という題を、訳者の観世寿夫氏は、「外見の美、技術の修練による美、天稟の素質から生じる精神的な美について」 というふうに わかりやすく訳していらっしゃいます。

 「皮・肉・骨」 については、現代では、中学生でも いっぱしの意見を披露できるでしょう──たとえば、天賦の才があっても、日頃、稽古をしなければ、いずれ、その才も枯渇するとか、外見を いくら整えても、日頃、稽古していなければ、直ぐに 「化けの皮」 が剥がれるというような意見は、たとえ実践の ウラ打ちがなくても、述べることができるでしょう。中学生でも言えることを、今更、老年に入りかけた おとな が説教師ぶって、どうこう コメント を付すほどのことでもないでしょうね。敢えて謂うとすれば、現代では、「見える化」 と称して、行為が手続き化されて──あるいは、機械化されて──、手続きさえ守っていれば非難されることはないとか、手続きさえ知っていれば実践しなくても会得したことと同値であると思い違いしやすい社会風潮が強いように私には思われます。

 厳しい習練を まいにち くり返して、ひたすら精進する人たちは、芸術家・運動選手・学者など一部の人びとに限られて、大多数の人たちの普段の生活には、そういう習練は前提にされていないし、われわれ凡人は、そういう習練を積んで見事な技・すぐれた学識を見せてくれる芸術家・運動選手・学者を讃えても、かれらの生活を わが身に請け負おうとは思わないでしょう。同じような勤労を まいにち くり返す生活と、極限の ちから を 折々 炸発しなければならない生活では、過ごしかたがちがうのは当然でしょうね。同じ勤労を まいにち くり返す生活において、「努力」 を意識するのは、たいがい、今の生活を脱して、生活の レベル を 「ワン・ランク・アップ」 するためであって、今の ワザ を極限にまで高めることにはないようです。知力・体力を極限にまで伸ばす 「弛まぬ努力 (稽古)」 は、或る意味では、偏向な仕業 (しわざ) であって、生活は仕事 「一辺倒」 にならざるを得ないので、普段の生活から離れる覚悟がなければ専念できないでしょうね。

 私は、芸術家でもなければ、運動選手でもないし、学者でもないのですが、モデル を作る仕事をしてきて、弛まぬ学習を続けて、普段の生活を犠牲にしてきました。そして、私は大学などの研究機関に属しておらず一定の収入がないので、じぶんの研究を続けるために仕事をする──研究を続けるための金銭を折々の仕事で稼ぐ──という不安定な生活を続けてきました。研究を続けるために仕事をして、研究で導きだした定則を仕事に適用し試して、フィードバック することを くり返してきました。私の仕事・研究では、生まれつきの資質は無用ですが、基礎技術の修練は絶対の要件です。本 ホームページ の 「佐藤正美の問わず語り」 (読書のしかた、2009年 9月 1日付) で本居宣長の 「うひ山ぶみ」 から以下の文を引用しました。

    しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみ
    つとめることが肝要である。まなび方は いかようにしても
    よいだろう。さして拘泥するにはおよぶまい。方法がどれ
    ほどよくても、おこたって つとめなければ効果はない。

 この言を私は実感として共感できます。

 「情報」 の入口・出口をもった 「ブラックボックス」 を設計すること──言い換えれば、in-put として 「制御目標」 を入れたら、out-put として 「制御結果」 が示される系 (system) を設計すること──が私の仕事です [ 具体的には、事業過程・管理過程を モデル 化する定則を作ることが私の仕事です ]。ブラックボックス は、手続きを省力化する しくみ なので、私の仕事は、或る意味では、私自身が非難している 「思考の機械化」 に荷担しているとも云えるかもしれない。でも、私は、定則を作る努力 (学習) を ブラックボックス に任せようとは思わないし、幸いにも、計算可能関数 (チューリング・マシーン) は 「『決定可能』 を決定する プログラム を作成できない」 ことを証明しました。機械は 「疲れた」 などという愚痴を謂わないで黙々と同じ動作を くり返します。同じ動作を一寸の狂いもなく くり返すという点では、われわれは機械に及ばないでしょうが、「ひとつのことを くり返して、次第に工夫する」 という点では、われわれは機械に勝 (まさ) っています──学習機能を搭載した機械も存在しますが、或る視点を拡張することはできても、視点の移動 (複眼的視点) は苦手のようです。視点の移動について、世阿弥は、「皮・肉・骨のこと」 のなかで以下のように述べています。

    しかも演者としては、ただ主観に従って演じるのではなく、
    演戯している自分自身の心中に観客と一体化したまなざし
    <離見の見> を持ち、そこに映る自分の姿を配慮すること
    ができたとき、はじめて、その演者は、皮・肉・骨の三つ
    を完全に体得した演戯者であるといえるだろう。

 この点 (離見の見) こそ──自分自身を客観的に見ることこそ──、機械にできない 「『決定可能』 を決定する プログラム」 のことでしょうね。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、観世寿夫 訳。

 
 (2009年10月 8日)

 

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