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 世阿弥は 「遊楽習道風見」 において「芸の完成への三段階」 について以下の文を綴っています。(参考)

     われわれの能の稽古もこれと同じであって、幼少のときは苗で
    あるから、舞と歌との二大基礎のうるおいでこれを育て、すでに
    穂を出す壮年になり最盛期の芸風となっても、なお将来末長く
    持続する安定した芸風を工夫自得し、自分の意識のおよばぬ
    見物の眼にこそ芸のよしあしが問われることを覚悟して、さらに
    老年になっても、最後まで観客を感動させる効果をいや増しに
    することを忘れない稽古こそ、実ることをわきまえたというもの
    であろう。

     仏法の箴言 (しんげん) にも、「法を得ることはやさしいが、
    法を守ることは難しい」 といわれている。

     能についていえば、上述の苗の時期、出穂の時期、結実の
    時期が終わって、どんな難しい芸も無意識にやすやすと演じら
    れる境地に到って、あらゆる演目がすべて演者の心のなかの
    構想をそのまま外に表わすようになれば、それは 「色がすな
    わち空である」 ような境地だといえるだろう。しかしながらこの
    芸風に達したものと考えるならば、(略) 「未得為証 (みとく
    いしよう)」──すなわち悟ってもいないのに悟ったと思いこむ
    誤解ではないであろうか。したがって、演者の意識を超えた
    ところに生じる評判にたいして、この段階ではまだまだ配慮が
    なされなければならない。やがてこの段階もすぎて、こうした
    意識外の欠陥についての不安もなくなり、どのような気ままな
    演出もたくましい安定感を得て、まさに本道にはずれた表現だ
    と見えながら、しかも面白く、批判の尺度を超えた境地がある
    とすれば、それが 「空すなわち色である」 ような境地だといえ
    るであろう。欠陥そのものが面白いのだから、欠陥の批判は
    あるはずがなく、したがって意識を超えた欠陥についての配慮
    もまた必要ないのである。

 以上に引用した文のなかで仏法の用語──「色」 とか 「空」 とか 「悟り」 など──が使われているので、仏法を知らないと理解できない点があるのですが、全文を読み通せば、世阿弥が謂わんとしていることは感知できるでしょう。

 ただし、「欠陥そのものが面白いのだから、欠陥の批判はあるはずがない」 という文は今の私には皆目理解できない文です──この文を読んで、なんとなく 「雄大さ」 を感じるのですが、具体的な様を想像できない、、、「長所が時に欠点になる」 という程度のことなら、私でも、いくつも事例を列挙することができるのですが、「批評の尺度を超えた」 欠陥というのを今の私には想起できない [ 敢えて例を考えてみれば、カントール 氏の集合論かなあ、、、]。

 さて、世阿弥が警告している 「未得為証」 に私は いま 陥っているのかもしれない、、、。というのは、私は 「いざない」 を脱稿したときに、TM (T 字形 ER 手法の改良版) を 「確実に掴んだ」 と思ったから。ひょっとしたら、私が掴んだ物は、確かに 「穂」 であるかもしれないけれど、その 「穂」 は次の 「苗」 の種なのかもしれない。次の収穫のときに、いったい、どんな実を刈り入れることができるのかしら、、、収穫に対する期待もあるけれど、育てる辛さに対して気後れも感じています。以前は──TM を作っている途上では──、こんな気後れを感じたことはなかったのですが、一歩進めることに気後れを感じているというのは、私が年老いて思考力が落ちたからかしら、、、。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。

 
 (2009年11月01日)

 

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