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A carrion kite will never be a good hawk.

 

 世阿弥は 「九位」 において以下の文を綴っています。(参考)

    能の芸風の品等は全体として九段階に分かれるが、とくに上級
    三段階を 「上三花」 とよぶ。

 私 (佐藤正美) は、ここで、それらの九段階を列挙するつもりもないし、仮に それらを列挙して 「説明」──世阿弥が付している注釈を要約した文──を記しても、われわれ シロート には、ほとんど感知できないでしょう。ここでは、能の芸風には九段階があって、さらに、それらが 3つに グループ 化 (上級三段階、中級三段階および下級三段階の切断) されている、とだけ覚えておけばいいでしょう。そして、それらの三段階は、「上三花」 「中三位」 および 「下三位」 とされています。

 上に引用した文に続いて、世阿弥は、「九位習道の次第 (九位を習得する順序について)」 のなかで、以下の文を綴っています。そして、私が今回の テーマ にしたい点も、以下の文なのです。

    まず中級三段階の稽古から始め、次に上級三段階を習熟した
    うえで、最後に下級三段階を学ぶべきだといわれている (略)

    中級三段階から上級三段階を完全に身につけて、そこで
    意識的な演戯を超えて自由自在の境地にはいった人が、
    そのうえでわざと下位へ戻って、下級三段階をひとつの
    遊びとしてたしなむ場合は、その演戯はたんに粗野では
    なくて、ひとつのなごやかな芸風を示すことにもなるで
    あろう。

    (略) 修業をするのに下級三段階を最初の出発点とする
    ような連中がいる。これは、修業の正しい順序ではない
    のであり、当然の結果として、近頃は九段階の品等のどこ
    にもはいれないような能役者が多いのである。

 
 以上の文を まとめれば、稽古は 「中級 → 上級 → 初級」 の順でやるべきだ、ということでしょうね。この順序は、能楽に限らず、学問の研究および著作の執筆でも同じです。もっと正確に言えば、「初級 → 中級 → 上級 → 初級」 という課程構成になるでしょうね。ただ、最初にある 「初級」 段階は、じぶんが これから関与する領域の全体像を ザッと眺望する程度で、網羅的な in-put を消化するのみの段階であって、なんら生産過程にはないでしょうね。消化と生産が一体になって、じぶんの着想・視点・論法が出てくる段階は 「中級」 の段階であって、さらに、研究を進めて 「上級」 (独自の説を立てる) に到る、というのが研究の順序でしょうし、もし、その研究の実りを公にするのであれば、論文・著作を執筆するでしょう。そして、そのあとで、専門知識を一般向けとして平明に まとめるでしょうね。すなわち、研究活動を生産過程の観点で言えば、「中級 → 上級 → 初級」 という順になる、ということです──その過程は、そのまま、論文・著作の執筆順です。こういう課程を辿らなければ、「(世阿弥の謂うように、)その演戯はたんに粗野ではなくて、ひとつのなごやかな芸風を示す」 に到らない。

 学者たちのあいだでは、「40歳を過ぎるまで入門書を書いてはいけない」 という口伝があるようです──「40歳」 というのは、なにも具体的な指示語ではなくて、「(学問を修めて) 中級・上級に到った」 という意味でしょうね。入門書を多数読んで、それらを まとめて入門書を綴るという やりかた では底が浅い──すなわち、新たな視点・着想・論法など出てこないでしょう。入門書は、初級向けだから、だれにでも執筆できる訳ではないのであって、入門書こそ、その領域を熟知した学者しか執筆できない。「読み応えのある書物が、最近、ほとんど出版されないで、ミーハー 本ばかりが溢れている」 という言を私は まわりの人たちから聞くのですが──私自身の読書は、或る領域 [ 数学基礎論・哲学 ] に限って精読していて、最近の出版物を読んでいないので、そう言う人たちに共感することも反対することもできないのですが──、まわりの人たちは読書子として信頼できる人たちなので、かれらが そう言うのであれば、たぶん、最近の出版物は、入門書ばかりが溢れて、しかも、それらを執筆している著者たちが 「中級 → 上級 → 初級」 という研究課程を歩まないで、「初級 → 初級」 の態なのかもしれない。

 私自身は、いまだ、入門書を執筆できるほどの実力がないことを正直に告白しておきます。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。

 
 (2009年11月08日)

 

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