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That makes it double sure.

 

 世阿弥は 「三道 (能作書)」 のなかで、「新作とその典範」 として、三体 (老体・女体・軍体) の典型的作品を列挙して、それらの作品をもって、今後、新作を行なう場合の典範とすべきであると述べています。そして、それらを列挙したあとで、以下の文を綴っています(参考)

    およそ、近年に創作された作品の数々も、要するにそれらの
    原典となったもとの作品があり、それを少し写しとって作り
    変えた新趣向にすぎない。(略) このようにどんな新作を
    見ても、いずれも本来の原形を作り変えてできた作品なので
    ある。その時代ごとの好みに応じて、少し言葉を変え音楽を
    あらためて、つねに時世の変遷に適合した舞台成果をあげる
    ようにしたものである。今後とても、原作を補修して新作を
    作るということを、能の創作の原則として守って行くべきで
    ある。

    だいたい能の良し悪しの判定は、演戯者が自分かってに
    できるものではない。都でも田舎でも、辺境の地にいたる
    まで広く評判をとるのがこの芸の性質であるのだから、世の
    評判というものを逃れることは不可能である。したがって
    能のありかたというものは、古い芸風、新しい芸風と時代に
    応じて変わるのが当然であるように思われるが、しかしふしぎ
    に天下の好評抜群の名人たちは、その芸風とするところは
    いちように幽玄 (優雅艶麗) の風情をそなえている。過去の
    芸風についていえば田楽の名人一忠 (いつちゆう) がそう
    であるし、少し近いところをいえば、われわれの流儀の先達
    観阿弥や、近江申楽日吉座 (ひえざ) の犬王道阿弥がそれ
    であって、すべて舞と歌の幽玄の美を基本として、三つの基本
    役柄のどれにもつうじた名人であった。このほかにも、軍体や
    砕動様式だけに長じた芸人はあったし、一時は彼らも世の
    評判を得たけれども、結局、時世の変化に耐えぬく評価は
    得られなかった。

    ほんとうに幽玄の正統的な芸風で最高位をきわめた者は、
    時世の好みがどうであっても、その舞台効果にはなんの
    変りもないもののように思われる。(略) 都会でも田舎でも
    いちように名をあげた芸人がその実力の証拠として見せる
    ものは、どうやら例外なく幽玄の芸風のほかにはないように
    思われる。

 以上の文は、一読したかぎりでは、一見、簡単に理解できるように思われるのですが──実際、私は、最初、そう感じたのですが──、再読してみると、とても難しい文であることに私は気づきました。以上の文が難しい理由は、以下の 2点が絡まっているからだと思います。

  (1) 芸風は時代に応じて変わる。

  (2) しかし、どの時代でも高い評判を得た芸風は幽玄を実現していた。

 つまり、まず、「幽玄」 が前提になっていて、しかも、たとえ、「幽玄」 を実現していても、時代ごとの嗜好に応じて芸風は変わる、ということです。そして、「幽玄」 を実現していなくても一時的に高い評判を得ることができるけれど、時世の変化に耐え抜く評価を得られない、ということを世阿弥は綴っています。以上を まとめれば、時世の変化に耐え抜くには 「幽玄」 な芸風でなければならない、ということでしょうね。ただし、「幽玄」 の芸風を実現していても、かならずしも、時世の変化に対応できる訳ではないことにも注意すべきでしょうね。だから、「原典」 を基底にしながらも、時代の嗜好に合わせて、新作をつくる、ということでしょう。ただし、新作は、「原典」 を継承していなければならない。

 このように理解してみると、世阿弥が綴った文は、芸風だけに限られたことではなくて、もし、「幽玄」 を 「無矛盾性と完全性を実現した説」 というふうに翻訳してみれば、学問の領域や応用科学の領域にも適用できるのではないかしら。すなわち、整合的な説で構成される基本構成を継承しながらも、時代の変化に応じて改良して、しかも、その改良された説は整合的でなければならない、と。

 アナトール・フランス 氏 (小説家) は、以下の言を遺しています──本 ホームページ 「思想の花びら」 で、かつて、引用した文です。フランス 氏の言は、世阿弥が述べた 「幽玄」 を──ここでは、「正統な」 芸と翻訳してもいいでしょうが──べつの視点で叙述しています。

    表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、
    すべて速かに古臭くなる。

 私のように モデル の文法を作る エンジニア は、くれぐれも、世阿弥と アナトール・フランス 氏が忠告した点を疎かにしてはいけないでしょうね。かれらの述べたことが 「正統」 という意味でしょう。自戒の念をこめて、この エッセー を綴りました。

 
[ 追伸 ]

 世阿弥の文のなかで、「だいたい能の良し悪しの判定は、演戯者が自分かってにできるものではない」 という文も本 エッセー で考えてみたかったのですが、ひとつの エッセー のなかに テーマ が 2つになることを避けるために外しました。「追伸」 で扱ってみます。

 私が謂いたいことは、エンジニア どうしが身内で 「われわれの やりかた は良いねえ」 と誉めあっても、じぶんたちの自慢話にすぎないのであって、本来、ユーザ に誉められてこそ本当の評価だ、ということです。コンピュータ 技術が専門分化するにつれて、同じ技術を使う身内で自画自賛して じぶんたちの存在価値を確認しようとしている変な傾向が出てきているように私は感じています。

 じぶんの説の妥当性を問うのであれば、学問の通説に対比して問えばいいでしょう。そして、じぶんの説が妥当であると自信をもったならば、その説を使って いかにして ユーザ に貢献するか を考えればいいでしょう。それが practitioner としての職責であって、身内の評判を得るのが仕事の目的ではないでしょうに。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、山崎正和 訳。

 
 (2009年12月 1日)

 

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