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It is a long lane that has no turning.

 

 世阿弥の言を記録した書として 「世子六十以後申楽談義」 が後世に遺っています。この書は、「秦元能聞書」 と記されていて、元能が世阿弥の謂ったことを記録した書物です。「申楽談義」 と ふつう 称されている書物です。「申楽談義」 は、「能楽」 のほとんどの領域を収めており、本 ホームページ 「反 コンピュータ 的断章」 で引用してきた世阿弥の著作のなかで述べられていることの集成のような体系として編まれています。その 「序」 では、「舞台芸術としての能」 について、元能が世阿弥から聞いた評 (および、世阿弥の記した著作) を参考にしながら、元能は偉大な先人たち (一忠、喜阿弥、増阿弥、犬王道阿弥、観阿弥、世阿弥) の芸風について述べています。それらの先人たちの個々の芸風を述べるに先だって、元能は、「三道」 から以下の文を引用して 「正統的な芸風」 を 「序」 の最初で示しています。(参考)

    最高の芸位をきわめ、しかも長久に天下の名望を獲得する
    役者は、すべて花の根源たる幽玄風を離れていないはずで
    ある。軍体能や砕動風の鬼能などの幽玄美に乏しい様式
    だけに長じた役者は、一時的には世の評判を得ることは
    あっても、結局、時世の変化に耐えぬいて名声を持続する
    ことはできないのだ。

    舞歌に基づく幽玄なる芸風こそが、この道の理想なので
    ある。

    真の名人上手は、どの系統の芸でも洩らすことなく演ずる
    はずである。しかるに、世間一般の役者は、大和申楽なら
    大和申楽の一方面の芸だけを習得するのみで、あらゆる
    芸風を演じこなそうとはせず、他座の芸風を嫌う。これは
    明らかにまちがいであって、芸風や演戯の基本はそれぞれ
    異なっているけれど、人々が面白いと感じる魅力は、大和
    申楽であれ大江申楽であれ、はたまた田楽であれ、どこの
    能にも共通して存在しているのである。

    能の稽古の正しいありかたは、二つの基礎技術である舞と
    歌からはじめて、順序正しく種々の役柄の演戯に移って
    ゆくべきである。(略) 天下の名声を獲得した三十四、五
    歳のころ以後でも、荒々しく動き回る粗暴専一の力動風の
    鬼能は、ついぞ演じたことがない。

 以上に引用した文は、本 ホームページ 「反 コンピュータ 的断章」 で いままで扱ってきた世阿弥の考えかたを まとめた文でしょうね。したがって、これらの文に対して、本 エッセー で いまさら注釈するつもりはないです。世阿弥の言を 「申楽談義」 として記録した元能の立場で考えるなら、ただ一言として 「正統な芸風を継承する」 ということに尽きるでしょうね。元能と同じ気持ちを私は持っていたい [ 上に引用した世阿弥の言を自戒の ことば としたい ]。

 TM (T字形 ER手法の改良版) は、離散数学でいう 「有向 グラフ」 を 「線と箱」 として翻訳した技術にすぎない──言い換えれば、TM は、離散数学・数学基礎論で整えられてきた モデル を継承しようと試みた技術です。そして、私は、TM に対して、今後も、「時世の変化に耐えぬいて」 改良を続けるでしょう。

 今回で、世阿弥を終わりにします。次回から本居宣長を テーマ にします。

 
(参考) 「世阿弥」 (日本の名著 10)、中央公論社、西野春雄 訳。

 
 (2009年12月 8日)

 

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