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What one likes to do, one will do well.

 

 今回から暫くのあいだ、本居宣長の幾つかの著作を材料にして、それらを起点にして想起される じぶんの考えを綴ってみたいと思います。まずは、かれの著作のなかで読みやすい 「宇比山踏 (ういやまぶみ)」 を スタート にします。「読みやすい」 というふうに私は謂いましたが、かれの文が構文論的に読みやすい──すなわち、古語辞典を ほとんど使わないでも読める、ということであって──意味論的には無茶難しい (あるいは、やっかいな) 著作です。というのは、この著作を本気で読めば、漢籍──現代で云えば、英語かも──を捨て 「(やまとたましい の)古風に還る」 ことを迫ってくるからです。

 いっぽうで、私は荻生徂徠の著作を読んできて、徂徠の考えかたに共感を抱いているので、漢籍を捨てることなどできない。宣長が学問に向かう態度──すなわち、古代の書物を読む態度──は、徂徠の やりかた と同じです。徂徠 (1666-1728) も宣長 (1730-1801) も江戸時代中期に生きた人たちで、徂徠が亡くなったあとに宣長が生まれています。そして、宣長は、徂徠の やりかた (古文辞学の やりかた) を継承しています。ふたりの やりかた を料理 (クッキング) に喩えれば、宣長の やりかた と徂徠の やりかた は、調理法が同じでも食材が違うということでしょうね──勿論、徂徠が中華風で、宣長が和風です。ひょっとしたら、徂徠においても宣長においても、私は かれらの 「料理法」 を学ぼうとしていて、食材には無頓着なのかもしれない。そして、私の そういう読みかたは、読書の ありかた として邪道なのかもしれない。しかし、「××風 (あるいは、××派、××主義)」 という専門家の看板を立てない一般の読書子としたら、中華風であろうが和風であろうが、美味 (おい) しい食事は美味しいとして食しても非難されないでしょう──じぶんの嗜好に合おうが合うまいが、「旨 (うま) い物は美味 (うま) い」 と感じる味覚さえあればいい。

 「宇比山踏」 は、宣長が 69歳の作で、門下生に請われて 「和学を いかに学ぶか」 について綴った書物です。このとき (寛政 10年)、宣長は、畢生の大作 「古事記伝 (44巻)」 を脱稿した直後でした。「古事記伝」 は、古事記を研究する際、いまでも手本とされる書物だそうなので、一事を成した俊才が示した 「和学を いかに学ぶか」 は、たとえ 「和学」 という研究対象を離れても、学問の進めかたとして傾聴できる点が多いと思います──少なくとも、私にとっては学ぶ点が多かった。

 「どのように学習すればいいか」 という学習法について、宣長は、以下のように述べています。(参考)

    しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみ
    つとめることが肝要である。まなび方は いかようにしても
    よいだろう。さして拘泥するにはおよぶまい。方法が どれ
    ほどよくても、おこたってつとめなければ効果はない。

 この文を私は本 ホームページ のなかで幾度か引用してきました。この文を私は自らの戒めにしています。というのは、私は、うっかりすると、「効率的な学習法」 を探そうとして、学習法ばかりに拘泥しそうになるので。学習法というのは、学習の しかた であって、言い換えれば、目的を遂げるための手立てであって、手立てを超えた 「どこでも いつでも通用する妥当な定則」 ではないのですが、「法」 という言いかたが、まるで、「どこでも いつでも通用する妥当な定則」 が手立てのなかに隠されているように錯覚してしまいます。

 特に、モデル を研究していると、うっかりすると、「どこでも いつでも通用する妥当な定則」 があるように思い違いしがちです。モデル の学習に夢中になると、モデル そのものに価値を見いだそうとしてしまい、モデル が用具にすぎないことを忘れがちになってしまいます。モデル を作ったひとが じぶんの作った モデル を自慢するのは、じぶんの恋人が いちばんに すてきだと思い込んでいるのと同じような逆上 (のぼ) せにすぎない。

 TM (T字形 ER手法の改良版) を作るために、私は数学 (いわゆる数学基礎論 [ ロジック ])・哲学を そうとうに学習してきました。それらの学習は、ほんの一年・二年や数年くらいの学習ではない。私は、そもそも、数学が嫌いで文系を選んだのですが、大学生のときに避けて通った数学が職業に就いたときに通せんぼして立っていて、この道を歩み続けるのであれば、そこを通り抜けなければならなかった次第です。数学を かつて まともに 学習しなかった文学青年が数学を──しかも、超・難しい 「ゲーデル の不完全性定理」 を なんとか読めるようになる程度まで──学習するというのは、数学を学習してきた人たちには想像できないほどの苦労でした。数学の学習途上で、いくどか挫けそうになったのですが、よろめきながらも、なんとか歩き続けて、今に至っています。

 数学の学習途上で、「宇比山踏」 を読んだときに、上に引用した文が励みになりました。数学を学習していて苦しさのあまり、なんとかして 「効率的な学習法」 はないか と思って、数学を 「てっとりばやく」 学習する やりかた を探していたのですが、数学の無矛盾性・完全性を証明する 「超・数学」 が構成できないように──ゲーデル 氏が 「不完全性定理」 として それを証明したのですが──、数学を 「てっとりばやく」 学習できる装置などないことに気づいて、数学の書物を 「うまず おこたらずに」 読むほかに やりかた がないことを身を以て感じた次第です。

 宣長は、「うまず おこたらず はげみつとめる」 ことを説く前に、以下の文を綴っています。

    学問をこころざすほどのものは、まさか小児同然の料簡でも
    あるまいし、分に応じて当人の思案は かならずあろうと
    いうものである。

    いかにして まなぶかという手順を一応の理屈によって、こう
    こうしてよろしいと示し教えることは容易ではあるが、その
    示し教えたとおりにして さあよいものかどうか。

 私が数学基礎論 (ロジック) を学習したいので、もし、数学基礎論を { 集合、写像、帰納法、関係、グラフ } の順に──テキスト どおりに──学んだとしたら、はたして、私は、数学基礎論を本気で学習したかどうか、、、きっと挫折していたでしょうね。たしかに、私は、数学基礎論の テキスト を 数冊 通読しましたが、私が数学基礎論の概念・技術を はっきりと掴んだのは、TM の地に立って数学基礎論を見据えたときであって、数学基礎論の肩越しに TM を のぞき込んだのではなかった。宣長曰く、

    これも押しつけには定めかねる儀であって、じつは当人の
    こころまかせにしてよいというほかない。

 「うまず おこたらず はげみつとめる」 前提として、「テーマ」 が定立されていなければ、「効率的な学習法」 を探すはめになる、ということです。

 
(参考) 「本居宣長」 (日本の名著 21)、中央公論社、石川 淳 訳。

 
 (2009年12月16日)

 

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