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Repeated reading makes the meaning clear.

 

 本居宣長は、「宇比山踏」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

    まず、かのいろいろある学問の筋のことにして、そのどれを
    とってみても、どれもこれもみな必至におそろかならぬ筋に
    て、究明せずにはおけないことゆえ、一つのこらずまなんで
    みたいものであるが、一人の生涯の力ではとてもすべては、
    その奥まではきわめがたいことだから、なかにも主として
    奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、
    はじめよりこころざしを高く大きく立てて、つとめまなばなく
    てはならぬ。そうして、その他のさまざまな筋をも、力の
    およぶかぎり究明すべきである。さてその主として奉ず
    べき筋はなにかといえば道の学問である。

 この文に続いて、宣長は、読むべき書物を例示しています。かれが例示した書物を以下に列挙しておきます──初学向けとして かれの著作も示されているのですが割愛します。

    古事記、日本書紀、古語拾遺、万葉集、続日本紀、日本後紀、
    続日本後紀、文徳実録、三大実録、延喜式、姓氏録、和名抄、
    貞観儀式、出雲国風土記、釈日本紀、令、西宮記、北山抄

 宣長は、これらの書物を読むときの助言を以下のように与えています。

    すべて上記の本はかならずしも順序をきめて読むにもおよば
    ない。ただ便宜にまかせて、順序にかかわらず、あれもこれ
    もと見るがよい。またどの本を読むにしても、初心のうちは
    かたはしから文章の意味を解そうとすることはない。まず
    たいていのところをざっと見て、他の本にもどって、何遍も
    読むうちには、はじめにわからなかったこともそろそろわかる
    ようになってゆくものである。

 私 (佐藤正美) は、10数年前 (40歳頃) に数学を学習しはじめたとき、宣長の この助言が とても役立ちました。私は数学の学習において、まさに、宣長が助言している やりかた で学習を進めてきて、数学の概念・技術を次第に体得できるようになりましたし、いまでも、この やりかた が学習を進めるうえで納得のゆく やりかた だと思っています。ただし、宣長が 「順序をきめて読むにもおよばない」 と謂っている点に関して、私は賛同しない──私なら、上記の書物を 「年代順」 に読み進めるでしょう。宣長が謂っている点は、たぶん、どれかを選んで読み始めたら、そこを起点にして 「芋蔓式に」 基底が拡がってゆく、ということでしょうね。ただ、数学の場合には、そうはいかない。「ゲーデル の不完全性定理」 を読んでから、数学基礎論の書物 (ロジック の書物) を読むというのは、「非効率」 な学習法ではなくて愚行にひとしいでしょう。

 私は セミナー 講師をしていて、ときに、私の専門外の領域 (会計学、生産管理) を話すことがあるのですが、それらの領域を学習するには、「まず、入門書を数冊買ってきて、それらを読み通してください。中身がわかろうがわかるまいが、まず、すべてを読み通してください。そして、それらを読んだあとには、頭のなかに、なにかしら記憶されている感覚があるので、その感覚を基底にして、次に、じっくりと再読してください。そして、再読しても わからないことは そのままにして、新たに、数冊を読んでください。そうしているうちに、いままで わからなかったことが しだいに わかるようになるでしょう」 と助言しています。数学の学習で云えば──数学も私の専門外の領域ですが──、数学基礎論の入門書を一冊 丁寧に読んだとしても、数学基礎論をわかる訳じゃない。

 そして、宣長は、こういうふうに学習を進めてゆけば、「次に どの書物を読めばいいか」 という点も明らかになってくると謂っています──私の体験を振り返っても、宣長の言に賛同します。

    さてこれらの本を何編も読むあいだには、そのほかに読む
    べき本のことも、いかにしてまなぶかという方法なども、
    おいおいに自分の料簡ができてくるものだから、それから
    さきのことはいちいちさとし教えるまでもない。めいめい
    おころまかせに、力のおよぶかぎり、古代の書をも後世の
    書をも、広く見るのもよかろうし、また読みをしぼって、
    さのみ広くはわたらなくてもよいだろう。

 宣長は、前述した 古代の和書だけを読んでいたのではない。漢籍も読んでいました。ただ、かれが漢籍を読んでいた理由は、古代の日本語表記が漢文を使っていたので、漢字の文法・修辞法を学習するためであって、「唐ごころ (漢意・儒意)」 を研究するためではなかったようです。宣長曰く、

    さてまた漢籍をもあわせ読むがよい。古書はみな漢字、漢文
    を借りて記されていて、とくに孝徳天皇、天智天皇の時代
    のころより以後は万事かの国の制度によったものが多いの
    で、史書を読むにも、かの国の文章のようすをもたいてい
    は知っていなくてはゆきとどかぬふしが多いからである。

 かれの言を借りれば、モデル を専門にしている ひとが数学の技術を知らないというのでは都合が悪い。

 書物を幾冊も読み進めてきて、或る程度の時を過ごしたら、さらに、書物に対して 注釈 ノート を作成したほうが、書物を適確に読み下すことができるでしょう。宣長曰く、

    さてまたおいおい学問に入りこんで、事の筋道もおおかたは
    合点のゆけるほどにもなったときは、どの書でもあれ、古書
    の注釈を作ろうと、早くこころがけるがよい。ものの注釈を
    するのは、すべて大いに学問のためになることである。

    自分でも古風な歌をまなんでよむがよい。(略) 歌をよまなく
    ては、古代の世の微妙なこころ、風雅 (みやび) のおもむき
    はさとりがたい。

    「伊勢」 「源氏」 そのほか物語の本をも つねに見るがよい。
    すべて自分で歌をも よみ、物語の本なども つねに見て、古代
    の人の風雅のおもむきを知るのは、歌をまなぶためにはいうに
    およばず、古代の道をあきらかにする学問のためにも、至極
    たすけになることである。

 宣長は、実際、歌を詠んでいたのですが、さほど上手ではなかったようです。宣長が作った歌と かれが著した 歌の注釈書である 「新古今集美濃の家づと」 を対比してみれば、私の意見を率直に謂って、宣長は、歌において、高眼低手だったのではないかと思います。
 ちなみに、数学基礎論に対する 私の注釈 ノート が (拙著の) 「論理 データベース 論考」 「モデル への いざない」 です。私の注釈 ノート を出版すれば、数学基礎論を独学している人たちに役立つのではないかと思ったのですが、「論理 データベース 論考」 は、或る雑誌の書評では、「独断的」 と酷評されたそうです (笑、そして苦笑)。

 以上に辿ってきた宣長の学習法は、至極単純で、取り立てて目新しい やりかた でもないので、ひょっとしたら、現代科学の法則に慣れた目から観れば、古くさいように思われるかもしれないのですが、私には、このほかに実践の範を考えられない。単純であるが故に実践しやすいし、「うまず おこたらず」 実践しなければ 「しかた」 など存在価値がないのだから。

 道徳を説いている ひとが高徳の ひとではなくて、道徳を実践した ひとが人徳のある ひとなのであって、同じように、「学習法の専門家」 などは存在しない。学習の 「工夫」 は──否、学習にかぎらず、およそ、「工夫」 は── 実践のなかで生まれるという当たり前のことを 弁 (わきま) えていれば宜しい。

 
(参考) 「本居宣長」 (日本の名著 21)、中央公論社、石川 淳 訳。

 
 (2009年12月23日)

 

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