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To see no further than the end of one's nose.

 

 本居宣長は、「宇比山踏」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

    初心のうちはこうもすること。文章の意義の呑みこみにくい
    ところを、はじめから一つ一つ解そうとしては、途中でしぶって、
    さきにすすまないことがあるから、わからぬところはまあその
    ままにして読みすごせばよい。とりわけ、世にここは難解と
    してあるくだりを、さきばしって知ろうとしては、ますます
    わるい。ただよくわかっているところをこそ、気をつけて、深く
    あじわうがよい。ここはよくわかっているとおもって、ざっと
    見すごしてしまうと、すべてこまかい意味も解しえず、また多く
    勘ちがいもあって、いつまでもその誤読をさとりえないでいる
    ことがある。

    語の詮議について。語の詮議とは、もろもろのことばにつき、
    そのようにいう本来の意味を考えて、これを釈 (と) くこと
    をいう。たとえば アメ (天) というのはいかなることか、
    ツチ (地) というのはいかなることかと、一語をこまかく
    切って釈くたぐいである。これは学をするひとがたれでも
    まず知りたがることではあるが、このことにさほど深く気を
    つかうべきではない。これはたいていよい考えはできにくい
    ものにて、まあいかなることとも知りがたいわざだが、しいて
    知ろうとしなくても不便というわけでもなく、知ってもさほど
    益はない。

    されば、ことばはすべて、そのようにいう本来の意味を考える
    よりは、古人がこれをどう使ったかをよく考えて、しかじかの
    ことばはしかじかの意味に使ったということをあきらかにきわ
    め知るこそ肝要である。ことばの使ってある意味を知らなくて
    は、そこのところの文章の意味が通じがたく、またみずから
    なにか書くにも、ことばの使い方をまちがえることになる。
    しかるに、今の世に古学をするともがらは、もっぱらそのよう
    にいう本来の意味を知ろうとすることばかりこころがけて、
    それが使ってある意味のほうはなおざりにするものだから、
    書も読みちがえて、当人の歌だの文章もことばの意味がまち
    がい、使い方がまちがって、途方もないあやまりの多いことよ。

 上に引用した宣長の助言は、「宇比山踏」 のなかに述べられている助言のなかで抜群だと思います。私の仕事の文脈で云えば、TM (T字形 ER手法の改良版) は有向 グラフ を 「線と箱で」 記述した構成物なので、グラフ (関数) であれば、当然ながら、「線」 が第一義であって 「箱」 は変数にすぎない──その見かたを私は指導するときに 「箱 (entity) じゃない、線 (relation) を観よ」 と注意しています。その見かたこそ、R (a, b) を図 (有向 グラフ) にした本来の見かたです。

 ところが、ERD (Entity-Relationship Diagram) を描いている人たちは、entity のほうを重視するようですね (苦笑)。宣長が述べているように、「箱 (entity)」──あるいは、ひとつの概念──そのものを詮議しても、その 「箱」 が どういう文脈のなかで使われているかを配慮しなければ、その 「箱」 の意味を正確に把握できないでしょう。況(まし)て、データ 項目を 100個も 200個も ひとつの テーブル のなかにぶち込んでいる状態などは、そもそも、対象の意味を明らかにして他の人たちと コミュニケーション しようという意図など更々ないでしょう [ 我流にすぎないということです ]。

 クラス 概念を使っている (と思い込んでいる) 連中でも、クラス 概念は 「恣意的でいい (じぶんの見かたで構成していい)」 という出鱈目な考えを抱いているようですが、クラス は、当然ながら、「関係」 のなかで座標を与えられるという当たり前のことを無視している。そういう連中は、抽象化などという曖昧なことを謂っているから、宣長の言を借りれば、「それが使ってある意味のほうはなおざりにするものだから、書も読みちがえて、当人の歌だの文章もことばの意味がまちがい、使い方がまちがって、途方もないあやまりの多い」。そういう連中は、クラス を演算するのは ロジック であるという当然のことを忘れて 間違った クラス 図を描いているにすぎない──クリプキ 氏の言を借りれば、そんな図は 「クワス」 図と一笑していい。もし、それを真面目くさってやっているならば、滑稽のほかはないでしょう。抽象化などと訳のわからないことを謂わないで、ロジック を徹底的に使うと謂うほうが正しい。数学者たちが f (x) を扱うとき、私の観る限りでは、そもそも、「性質」 として考えないで──そう考えれば、「性質」 を定義しなくてはならなくなって、無限後退に陥るので──、クラス という無定義語として扱って、「関係」 f (x, y) のなかで クラス の構成を考えていると思う。

 興味深いことに、宣長が述べたことは、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学において追跡できます。ウィトゲンシュタイン 氏は、当初 (「論理哲学論考」 では)、「意味」 を記述した最小単位の 「要素命題」 を考えて、それらの 「要素命題」 を すべて あつめたら 「世界」──ここで云う 「世界」 とは、「論理空間」 ことで、現実的世界のことじゃない点に注意してください──を記述できると考えていましたが、後で この考えを捨て、「哲学的探求」 では、「言語 ゲーム」 概念を導入して、「文脈 (生活様式、規則、行為)」 を重視するようになりました。

 「論理哲学論考」 は、「世界は事実の総計であって物の総計ではない」 という文ではじまりますが、「論理哲学論考」 を読み始めて、もし、「世界」 という意味を知ろうとしたら、皆目、次の文に進めなくなるでしょう (笑)。宣長の助言するように、「わからぬところはまあそのままにして読みすごせばよい」。そして、逆に、「世界」 という語を現実的世界として早とちりしてしまうと、宣長の謂うように 「ここはよくわかっているとおもって、ざっと見すごしてしまうと、すべてこまかい意味も解しえず、また多く勘ちがいもあって、いつまでもその誤読をさとりえない」 ことになって、「論理哲学論考」 を読み間違えてしまいます。

 本 エッセー の最初で引用した宣長の助言を私は「宇比山踏」 のなかに述べられている助言のなかで抜群だと思っていますし、自戒にしています。

 
(参考) 「本居宣長」 (日本の名著 21)、中央公論社、石川 淳 訳。

 
 (2010年 1月 8日)

 

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