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He that talks much errs much.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「から人のおやのおもひに身をやつす事」 (前回掲載) に続いて、「富貴をねがはざるをよき事いする論 (あげつら) ひ」 を綴っています。(参考)

    歴代の儒者は、わが身の貧乏で身分の低いことを悲しまず、
    富貴や栄達を望まず、喜ばないのを立派な事だとするけれど
    も、それは人間のほんとうの心持ちではない。たいていは
    名声をむやみとほしがる、おきまりのごまかしである。たまに
    はそういう心持ちの人があるとしても、それは世間のひねくれ
    ものでこそはあっても、どうして立派なことでなんかあろう。
    道理にはずれた行動をして、無理やり望んだら悪いだろうが、
    分相応に努力すべき仕事を勤勉に行なって、出世をし、富み
    栄えるこそ、父母に対しても祖先に対しても、孝行というもの
    であろう。自身は落ちぶれ、家は貧しいというのは、この上も
    ない不孝であろう。ただ自己のけがれない名声をほしがる
    あまり、真の孝行を忘れるのも、また シナ 人の常態なので
    ある。

 「古学 (やまとたましいの追究)」 を最高だと思っている宣長は、前回記載した 「から人のおやのおもひに身をやつす事」 で 「唐国批判」 を綴っていますが、今回記載した 「富貴をねがはざるをよき事いする論ひ」 でも 「唐国批判」 をやっています (笑)。

 それにしても、かれの言は、ひどい 「決め打ち (決め付け)」 ですねえ。宣長は、中国の儒者が著した書物を読んで そう思ったのか、それとも、日本人の儒者を観て そう思ったのか、、、「歴代の儒者」 と記されているので、たぶん、儒者──中国人なのか日本人なのか が はっきりしないのですが──の書物を読んで そう思ったのでしょうね。宣長の この文を、もし、徂徠が読んだら──徂徠は、すでに他界していましたが──、どう反論したかしら、、、。

 さて、私 (佐藤正美) が、今回、テーマ にしたい点は、「わが身の貧乏で身分の低いことを悲しまず、富貴や栄達を望まず、喜ばないのを立派な事だとするけれども、それは人間のほんとうの心持ちではない」 という点です。

 宣長が記している状態 (貧乏で身分の低い状態) は、まさに、私の状態です。そして、宣長が非難している心持ち (富貴や栄達を望まず、喜ばない気持ち) も、まさに、私の気持ちです。さて、その気持ちを 「人間のほんとうの心持ちではない」 と指弾されたら、私は腹が立つ。かれが 「人間のほんとうの心持ち」 と断言するには、どのくらいの人数を観察したのかしら。百名や二百名じゃ、かれの断言を導き出すのは強引すぎるでしょう──というのは、当時、江戸には百万人くらいの人たちがいたのだから。まして、「人間」 というからには、江戸の人口のみを範囲にして終わる推論じゃない。私は、こういう論法 [ 「人間」 という クラス を前提にして、「すべての (∀x)」 という大前提を使うこと ] に対して嫌悪感を覚えます。

 かれは、そう決めつけたあとで、「some..., others...」 という論法 (集合を 「切断」 した部分集合) を使っています──すなわち、「たいていは名声をむやみとほしがる、おきまりのごまかしである」 と謂っている人たちについて 「たまにはそういう心持ちの人がある」 と。そして、「たまにはそういう心持ちの人がある」 ことを 「世間のひねくれもの」 であって 「立派なことではない」 と かれは言っています。ここで 「立派」 というのは、「道にはずれていない」 ということでしょうね──あるいは、もっと範囲を小さくして、「孝行」 ということでしょうね。

 さて、以上の論法の末に、かれは、以下のように締め括っています。

 (1) 自身は落ちぶれ、家は貧しいというのは、この上もない不孝である。
 (2) 自己のけがれない名声をほしがるあまり、真の孝行を忘れるのも、
    また シナ 人の状態なのである。

 つまり、これらの二つともが 「不孝」 なこととされていて、「真の孝行」 は、「分相応に努力すべき仕事を勤勉に行なって、出世をし、富み栄える」 ことであると、かれは考えています。しかし、「勤勉」 であることは 「出世」 の十分条件であっても必要条件にはならないでしょう [ ちなみに、「出世」 は、原文では、「なりのぼり」 と綴られています ]。

 宣長が 「玉勝間」 を執筆しはじめた年代は、寛政五年 (1793年) です [ 翌年、初篇刊 ]。さて、江戸時代の社会制度において──あるいは、かれが 「玉勝間」 を執筆する前後に観た尾張藩・紀州藩の社会制度において──、宣長が 「なりのぼり、富さかえむ」 と記した事態は、どの身分 (士農工商) を想像していたのかしら。ちなみに、江戸幕府は、寛政二年 (1790年)、湯島聖堂で朱子学以外の異学の講究を禁止してます。ただし、寛政五年、塙保己一に対して和学講談所の設立を許しています。そして、寛政九年 (1797年)、林家が経営していた湯島聖堂が官立に改められています。もっとも、宣長にとっては、江戸の社会状態に比べて、尾張藩・紀州藩の社会状態のほうが具体的な事象として体感されたことでしょう。

 本題に戻って、「たまにはそういう心持ちの人がある」 ことを 「世間のひねくれもの」 と言われると私は不愉快だし反論したくなります。私は、じぶんの仕事において 「勤勉」 であったと自負していますが、「出世」 とは、そもそも、縁のない職場で仕事してきました──そのために、私には、「出世」 欲など皆目なかった。そういう状態を、宣長の謂う 「人間」 からすれば、「例外」 と云うのであれば、寛政時代に 「農民」 が 「武士」 になることも 「例外 (あるいは、起こりえないこと)」 でしょう。そして、もし、「出世」 というのが、そのひとが帰属している身分のなかで考えられているのであれば、「勤勉」 は 「出世 (なりのぼり、富さかえむ)」 の一つの前提かもしれないけれど、あくまで、十分条件であって必要条件ではないということも事実でしょう。

 もっと具体的に謂えば、私の従事している仕事は、コンピュータ 領域のなかで──あるいは、もっと範囲を限って、「事業解析」 や 「データベース 設計」 において──、極々少数の人たちしか興味を示さない仕事です。すなわち、そもそも、対象範囲が小さい。そういう居所においては、「勤勉」 が、かならずしも、「富さかえむ」 ことの動因にはならない。そして、それを覚悟で、私は、そういう仕事をしてきたのです──しかも、「勤勉」に。そういう覚悟を 「世間のひねくれもの [ 原文は、世のひがもの ] 」 と云われたら、とても不愉快になります。宣長は、古書の解読において周緻な思考を駆使しているのですが、古書の解読を離れたときに、ときどき、広言 (放言) を やらかすようですね──じぶんのやってきたことに自信があるのかもしれないけれど、酒の席の言い散らしとして止めておけばいいものを。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 3月 8日)

 

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