このウインドウを閉じる

Fame is a liar.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「世の人かざりにはからるるたとひ」 を綴っています。(参考)

    日本と外国とのありさまを、物にたとえていうならば、日本
    の古代は、容貌の美しい人が、容姿や着物をも着飾らず、
    ただあるがままにしているようなものであり、外国の方は、
    みにくい女が、けばけばしく髪や顔を化粧し、美麗な着物
    を着飾っているようなものである。遠くから見る時には、
    ほんとうの容姿のよしあしは見わけがつかないで、ただ
    着飾り化粧をしている方が、すぐれているように見える
    らしいが、世間の人は、近くに寄って、ほんとうの美醜を
    見わけることも知らずに、ただ遠くからだけ眺めて、外国
    の飾りを美しいと思うのは、どうかと思われる。いったい
    シナ の国などは、すべての事が、ほんとうは悪いので、
    その悪いところをつつみかくそうとして、いろいろと着
    飾り、身づくりをするわけであった。

 さて、またまた、「古学 (やまとたましいの追究)」 を最高だと思っている宣長の 「唐国批判」 です (苦笑)。それにしても、かれの言は、ひどい 「決め打ち (決め付け)」 ですねえ。ここまで 「決め打ち」 されると、私は読んでいて ウンザリ します。かれは、どういう事実を集めてきて 「いったい シナ の国などは、すべての事が、ほんとうは悪い」 と断言しているのかしら (苦笑)。この断言は、いきおいで筆が滑ったという程度の失言じゃないでしょうね。原文では 「よろづの事、実 (まこと) はあしきが故に」 と綴られています。「よろづ (すべて)」 という表現が誇張の修辞だとすれば、かれの思考は杜撰だとしか謂いようがないでしょう。私の恋人が一番に美しいと謂われても、苦笑するしかない。

 私は書物を読むときに、気になった文に対して下線を引いています。そして、上に引用した宣長の文に対して私は下線を引いていました。私が下線を引いた理由は、宣長の言に賛同したからではなくて──逆に、嫌悪感を覚えたのですが──、この文を借用できると思ったからです。借用するには、勿論、私が非難した 「すべての」 という誇張を剥ぎ取って、「ひとつの作品」 に対する鑑賞態度を表すことができると思ったからです。それを以下に示します。

    ××という作品は、喩えて謂うならば、容貌の美しいひと
    が、容姿や着物をも着飾らず、ただあるがままにしている
    ような状態であって、すでに語られてきたことをけばけば
    しく化粧し着飾っているような虚仮威しではない。ザッと
    一読しただけでは、着想・視点・構成・文体のよしあしは
    見分けがつかないで、ただ、着飾り化粧をしているほうが
    すぐれているように見えるらしいが、作品を丁寧に読んで
    本物かどうかを見分けることも知らずに、ただ ザッ と
    読んだだけで批評して、虚仮威しの飾りを すばらしいと
    思うのは、どうかと思われる。

 この借用文は、2009年11月16日付けの 「反 コンピュータ 的断章」 で綴った 「用花と性花」 の説明で使えそうですね。学問の定説を述べて専門家を気取っているひとや、すでに語られてきたことを ただ興味を惹くような誇張した言いかたに言い直して じぶんを セールス するひとに対して、私は 「生理的な」 嫌悪感を覚えます。「猿でもわかる」?──惚けた虚飾を用いちゃいけない、猿にもわかるなら、あなたから指導される故 (ゆえ) はない。「猿にでも理解できるくらいの わかりやすい説明をした」?──惚けた思い違いを言っちゃいけない、下手な庭師が 闇雲に梢を切り落として、寒々となった無粋な景観を スッキリ したように錯覚しているだけでしょう。我流な (わがままで描いた) 「クワス」 図に対する皮肉として、「モデル の品格」 というふうに捻 (ひね) るくらいの機才をもってほしいですね [ ちなみに、「モデル の品格」 という名言は、「TM の会」 の或る会員が謂った ことば です ]。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 3月16日)

 

  このウインドウを閉じる