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Better bend than break.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「もろこしの経書といふものの説とりどりなる事」 と 「もろこし人の説こちたくくだくだしき事」 を綴っています。(参考)

 それぞれ、シナ に対する非難なのですが、私は、今回、宣長の シナ 非難を聞き流して、私にとって、思考に役立つと思われた点を テーマ にしたいと思います──宣長の シナ 非難に興味のあるひとは、「玉勝間」 を読んでください [ ただし、私は、この点 (経書に対する非難) について、本 エッセー の終わりで 若干 言及します ]。

 さて、私が興味を抱いた──私にとって私の思考法に役立つと思われた──点を、まず、「もろこしの経書といふものの説とりどりなる事」 のなかから以下に抜粋します。

    ただ皇国のいにしへのごと、おほらかに定めて、くだくだしき
    論 (あげつら) ひには及ばぬこそ、かへりてまさりはありけれ。

 そして、「もろこし人の説こちたくくだくだしき事」 からは、以下の文 (全文) を引用します。

    すべてもろこし人の物の論 (あげつら) ひは、あまりくだくだ
    しくこちたくて、あぢきなきいたづら言 (ごと) 多し。宋儒の論ひ
    を、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それもただいささか甚
    (はなはだ) しからぬのみこそあれ、然いふものもなおこちたし。

 それらの文の中核になる語は、「くだくだし」 「こちたし」 および 「あぢきなし」 でしょうね。

 「くだくだし」 の意味は──クダ は クダキ (砕) と同根で──「こまごましくて、わずらわしい」ということ。

 「こちたし」 の意味は──「コト (言・事) いたし (甚)」 の約で──「うんざりするほど ひしめいている」 とか 「仰々しくて目立つ」 ということで、英語で言えば、「too many/much」 。

 「あぢきなし」 の意味は──「あづきなし」 (どうにもできないほど事態がひどい) から転じて──「思うようにならず、手の下しようもないことに対して、愛想を尽かす (無用・無益だ、と にがにがしく思っている気持ち)」 ということ。

 以上の意味から判断すれば、宣長の文は、「論において、重箱の隅を穿 (ほじく) るような態度を非難している」 と翻訳していいでしょう。そして、かれの持説は 「おほらかに定めて、くだくだしき論ひには及ばぬ」 ということ。なお、「おほらか」 は、「おうよう (大様・鷹揚) に」 という意味ですが、「量が多いさま」 を含意している点に注意しなければならないでしょう。つまり、かれの持説は、「コト を網羅していて、なびよか [ なびやか ] に、おおらかに、論じる」 ということ。「なびよか [ なびやか ] に」 という意味は、かれの原文にはないのですが、かれが他の著作で述べている意見を元にして かれの思想を忖度して、私が入れた語です。「なびやか」 という意味は──ナビ は ナビキ (靡) と同根で──優美ということ。なお、ナビキ は、「元がささえながら、先がしなやかに揺れうごく」 意です。つまり、「根本が押さえられている」 ことを暗示しています。私の付言は、宣長の持説を外していないと思っていますが、いかがでしょう。

 さて、以上のように考えてくれば、宣長の持説は、どうも、徂徠の説に近いと私には思われます──「反 コンピュータ 的断章」 と 「反文芸的断章」 のなかで、2007年度に、荻生徂徠に言及してきましたが、それらの エッセー を読み返していただければ、宣長の古学研究法は徂徠のそれに近いやりかたであったことを認識できるでしょう。宣長は、「もろこしの経書というものの説とりどりなる事」 のなかで、「又かの宋儒の、格物到知窮理のをしへこそ、いともいともをこなれ」 (格物到知窮理の説こそ、とてもとても馬鹿らしい) と述べていますが、徂徠も、宋儒のそれを非難していました。そして、徂徠は、朱子学の 「格物到知」 説に反論して、「格物到知」 を 「物が みずから来る」 というふうに考えて、かれの説を立てましたし、かれは 「風雅文采」 (なびやか) を基底にしていました。徂徠の歩いた道を宣長も歩いています。宣長は徂徠の やりかた を真似ていないと謂っていますが [ 玉勝間八 (ある人のいへること) 参照 ]、徂徠も宣長も、当時の官学を非難して、みずから考え抜いて歩いた道が似ていたのは、偶然ではないでしょうね──書を読み、書かれている言を資料にして、じぶん [ の精神 ] が、書かれている事を推し量るというのは、そういう やりかた になるのでしょうね [ そして、私には、その やりかた が変わった やりかた だとは思われない (私の仕事で扱う モデル も同じ やりかた をしているので) ]。

 私は、かれらの やりかた を信奉しています。私は、実際、徂徠の やりかた を真似て、モデル (TM [ T字形 ER手法の改良版 ]) を作ってきました。ただ、私が かれらと違う点は──私は かれらほどの天才ではないので──、(じぶんの やっていることは間違ってはいないけれど、) 「じぶんの やっていることが いちばんに正しい」 などと思っていないことです。しかし、それが、私の限界なのかもしれない、、、「知る」 ことが 「信じる」 ことに到らない、という点で、私には、生半尽な性質があるのでしょう。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 4月 8日)

 

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