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As a man is, so is his company.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「兼好法師が詞のあげつらひ」 を綴っています。(参考)

 宣長は、「徒然草」 のなかで綴られている兼好法師の視点 (物の見かた) を非難しています──宣長は、「徒然草」 から 2つの例を挙げて、兼好法師の視点を非難しています。

    けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきを
    のみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや。

    又同じほうしの、人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかる
    べけれといへるなどは、

 「花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かは」 という視点を宣長は 「(それは ほんとうの雅ではなくて) 衒った (悧巧ぶった)」 態度だと非難しています。そして、「人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれ」 という考えかたは、仏教に媚びへつらった態度だと非難しています──「早く死ぬるを、めやすきことにいひ、此世をいとひすつるを、いさぎよきこととするは、これみな仏の道にへつらへるものにて、おほくはいつはり也」 と。

 宣長は、じぶんの意見を以下のように締め括っています。

    すべて何事も、なべての世の人のま心にさかひて、ことなるを
    よきことにするは、外国 (とつくに) のならひのうつれるにて、
    心をつくりかざれる物としるべし。

 かれの主張は、「世間一般の人の真情に反して、それと違うのをりっぱなこととするのは、外国の風習が感染したもので、真情を偽り飾ったものと知るべきである」 ということ。かれは、「万葉集」 を研究し、さらに中世以降の歌も研究して、日本人の精神を見据えて意見を述べています──ちなみに、中世以降の歌は、「万葉集」 と較べて その心持ちが反対になっていることも かれは指摘しています。かれは、「人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれ」 という考えかたを 「仏のをしへにまどへる也」 と指弾していますが、武士が台頭してきて、貴族が没落し、中世以降の 「戦乱」 のなかで 「明日をも知れぬ命」 という状態に置かれた人びとが 「ながくいきたらん事をこそねがひたれ」 と思ういっぽうで、「厭離穢土、欣求浄土」 という 「仏のをしへ (当時の仏教が示した仏道の 「解釈」) に追随したとしても、それも動乱の時代のなかで生活を翻弄された庶民が抱いた切ない 「まごころ [ 偽りのない気持ち ] 」 (無常感) ではないでしょうか [ ただし、私は、「厭離穢土、欣求浄土」 を信じていない ]。

 私は、かつて、「徒然草」 を 全篇 丁寧に読んで、兼好法師に対して好感を覚えました [ 本 ホームページ 35 ページ を参照されたい ]。そして、私は、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かは」 という情趣に対して共感を覚えることを正直に告白しておきます。ただし、私は、「人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれ」 という考えかたには与 (くみ) しない。

 さて、私が本 エッセー で テーマ にしたい点は、人びとの考えかたと 「さかひたる (逆う)」 とか 「たがへる (違う)」 という態度です。多く人たちが集まって会話しているときに、だれかが意見を述べるたびに、反例を示して 「そういうふうに考えることが ふつうかもしれないけれど──そういうふうに世間では謂われているけれど (あるいは、そういうふうに報道されているけれど)──、でも、ほんとうは、しかじかの事態です」 と謂うひとを眼にすることが時折あります。私は、そういう態度について どうこう批評するつもりはないのですが、ひとつの言明 p に対して、論理的否定 (¬p) を構成して、¬p の可能性 (あるいは、蓋然性) を験証することは、さほど難しいことじゃない。難しい点は、推論 (p → q) において──「p ならば、q である」 という推論を前提にして構成された意見において──、「反証」 を示すという点です。そういう推論において、「反例」 を出すことは、さほど難しいことじゃない。というのは、「反例」 となる 「実例」 の存在を示せばいいから。宣長が兼好法師に対して立てた反論は、すべて、「反証」 です──しかも、「人間 (ふつうの人間) であれば、しかじかである」 という大前提を使っています。

    人間であれば、長生きを願う。 (すべての M は P である)
    兼好法師は、人間である。 (S は M である )
    兼好法師は、長生きを願う。 (ゆえに、S は P である)

 しかし、兼好法師は、長生きを願っていない。したがって、兼好法師は 「さかひたる」、と。そして、そういう 「反例 (兼好法師)」 を 「さかしら」 である、と。私は、こういう論法に対して嫌悪感を覚えますし、そういう論法を使う思考に対して危険性すら感じています。しかも、「すべての M」 として、古代の日本人を前提にすることに対して、私は唖然とします。

 私が講師を務めた セミナー (先月開催) の アンケート のなかに、若い女性が 「批評語が多い」 と非難していました (苦笑)。システム・エンジニア が世間で流布している説 (俗説) の前提を疑うのは当然ではないか──私は、それを職責であるとさえ思っています。その アンケート を読んだとき、私は、そういうひと [ 前提を疑わないひと ] が システム・エンジニア になってほしくない、と思いました。なぜなら、推論では、「『前提』 は 『真』 である」 ことを確認することが一番の要 (かなめ) だから。推論式が無矛盾であれば、真とされる前提から偽は導出されない、という当たり前のことを無視するのは、「無矛盾な演算」 を職責とする システム・エンジニア として失格でしょう。そして、私の この言も 「批評語」 と云うのであれば、もう なにをか謂わんや。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 4月16日)

 

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