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Cats eat what hussies spare.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「うはべを作る世のならひ」 を綴っています。(参考)

 その全文は段落分けされていないのですが、すべての文を連続して表示すると パソコン の画面では見にくいので、私のほうで、原文に対応して連続して綴られている翻訳文を 3つの段落に区切って以下に引用します。

    うまい物を食べたく、よい着物を着たく、りっぱな家に住みたく、
    金銭を手にいれたく、人から尊敬されたく、長生きをしたいと
    思うのは、みな人間の真情である。それなのに、これらの願い
    をみなよくないこととし、それをねがい求めないのをえらいこと
    にして、すべてほしくはなく、ねがわないような顔をする者が
    世間に多いのは、例のうるさい虚偽である。

    また世間に先生と仰がれる知識人や、あるいは上人 (しょうにん)
    などと尊敬される僧侶などが、月や花を見ては、「ああ美しい」
    と賛美する顔をするけれども、美しい女を見ては、目にもとまら
    ないような顔をして通り過ぎるのは、ほんとうにそうなのだろう
    か。もし、月や花を美しいと見る感情をもっているなら、まして
    美しい女に対しては、どうして目が移らないわけがあろうか。

    「月や花は美しい、しかし女の色は目にもとまらない」 という
    のは、人間たる者の心ではなく、ひどいうそであることだ。では
    あるが、万事に表面を取りつくろい体裁を飾るのは、世間一般
    の風習であるから、これらのことは、虚偽だからといって、それ
    ほど非難すべきことではないであろう。

 この テーマ は、(「反 コンピュータ 的断章」 のなかではなくて、) 「反文芸的断章」 のなかで扱ったほうがいいのかもしれない。ただ、「玉勝間」 を 「反 コンピュータ 的断章」 のなかで連載してきて、その連載に並行するように、小林秀雄氏の初期評論集を 「反文芸的断章」 で連載しているので、「玉勝間」 の ひとつの段を 「反文芸的断章」 のなかに入れるのは、それぞれの断章のながれが崩れるので、今回の テーマ も 「反 コンピュータ 的断章」 のなかで扱います。

 とは言いながら、今回の テーマ 「うわべを作る世の習い」 を 「反 コンピュータ 的断章」 の観点に立って、なんらかの意見を述べるのは難しいなあ、、、。私の意見を述べるとしても、せいぜい、「世間では、うわべの手続きを擦 (なぞ) れば事が成就されたというふうな錯覚に陥っている人たちが多い」 というくらいでしょうね。指示された手続きさえ守っていれば、非難されない、と。あるいは、手続きどおりに実施すれば、期待値は実現される、と。そうだとしたら、オートマトン に仕事を任せればいい (笑)。

 「犬も歩けば棒にあたる」 という 人生の真実を穿 (うが) つ教訓・風刺を最初に謂った ひとは、丁寧な観察のうえで思考をめぐらしたであろうけれど、その言が いったん ことわざ になってしまうと、ことわざ を継承した人たちは、その ことわざ を古人が遺した慈訓としてきました。同じことは、数学の 「公式 (定理)」 でも云えるでしょう。ただし、人生訓のほうは、個々人の生活において、数学の定理ほどに単純には適用できない──なぜなら、個々人の生活において起こる事態は、それぞれ、ちがう前提・性質をもっているから。そして、それは、人々が共同生活として営む事業においても云えることでしょうね。

 コンサルタント あるいは セールス の常套手段──「ほかの会社はやっていますよ」。これも 「うはべを作る世のならひ」 の典型例でしょうね。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 4月23日)

 

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