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Where there are no fish, even a crayfish calls himself a fish.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるいもかかはるまじき事」 を綴っています。(参考)

     道を説こうとする場合に、儒教でも老荘でも仏教でも、たまに
    趣の似たところがあるのをつかまえて、自分の好む方向に従って、
    似ていない点をも、みなその方向に引きつけて解釈し、あるいは
    また、他の道と同じになることを忌避 (きひ) して、わざと区別
    をつけ、趣を変えて説こうとするなど、これらはみなたいそう無益
    なこじつけである。似ていまいが似ていようが、違っていようが
    同じだろうが、ともかくも他の道の趣意には少しもかかずろうべき
    ものではない。またこのように説いたら、世間では承認しまい、
    こう言ったらこそ、人は信用するだろうなどと、世間の人のごき
    げんをとって、少しでも説を曲げるようなことは、またとんでも
    ない卑劣なやり方である。すべて世間の人の毀誉褒貶 (きよ
    ほうへん) も考えてはならない。たとい他のもろもろの道とは
    表裏の違いがあり、世間でもまったく信じる人がなかろうとも、
    ただ神代を記した書物の趣意のままにこそ説くべきものである。

 上の引用文において、最後の一文 「ただ神代を記した書物の趣意のままにこそ説くべきものである」 を除けば、宣長の意見を私は賛同します。最後の一文は、私なら、さしずめ、「ただ学問 (の定説) を記した書物の趣意のままにこそ説くべき」 と綴るでしょうね。

 さて、宣長が述べた態度を 「高慢」 (あるいは、もう少し穏健に云って 「高踏」) と感じるかどうか、、、私の場合で謂えば、宣長の態度は 「至極当然」 な態度だと思っています。そして、私自身、TM を そういう態度で作ってきました。

 ただ、ここで思い違いしてほしくない点は、「説 (a theory [ 仮説 ])」 を作る場合には、そういう態度で臨みますが、「その説を実地に適用する 『技術』」 を作る場合には、他の考慮点を加味しなければならない、という点です。

 「説」 は、「正確で、妥当 (整合的) で」 なければならない。「このように説いたら、世間では承認しまい、こう言ったらこそ、人は信用するだろうなどと、世間の人のごきげんをとって、少しでも説を曲げるようなことは、またとんでもない」。「このように説いたら、世間では承認しまい、こう言ったらこそ、人は信用するだろうなどと、世間の人のごきげんをとって、少しでも説を曲げるようなこと」 を私は 「ミーハー 的」 だと謂っています。そういう詭計をめぐらすには、説を或る程度知っている状態にいるのですが、他人の執筆した入門向けの書物を多数読んで初級状態で終わったまま専門家を気取っている輩は、論外です。

 「その説を実地に適用する 『技術』」 は、実地に使われるかぎりにおいて、「単純」 (使いやすいこと) でなければならないでしょう。「技術」 を複雑な状態にして──言い換えれば、単純にするように尽力しないで──、「私にしか使いこなせない」 などと謂っている態は、私には、エンジニア として阿房にしか思えない。「sophisticated な (凝った)」 技術などは、エンジニア の 「高慢」 な態度──あるいは、怠けた・惚けた態度──でしかないでしょう。或る 「技術」 が生まれたときに 「sophisticated」 であっても、その状態を単純にしてゆくのが エンジニア の職責だと私は思っています──あるいは、「技術」 が生まれたときに単純だったのが、進化するにつれて複雑になってゆくのが普通の現象であるならば、複雑になってゆく 「技術」 を 折ふし 再体系化して単純にするのが エンジニア の職責だと私は思っています。「技術」 が複雑になったままにして、「われわれ にしか使えない」 などと うそぶいているのは、エンジニア として怠慢以外のなにものでもない。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 5月23日)

 

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