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Good enough is never ought.

 

 本居宣長は、「玉勝間」 のなかで、「足 (たる) ことをしるといふ事」 という以下の文を綴っています。(参考)

     満足することを知るというのは、シナ の人々が常にりっぱ
    なこととしていることだが、これは実によいことであって、
    そのようにさとり得たら、身分相応に、だれもかれもみな、
    心がたいへん安らかになるにちがいないことである。そう
    ではあるが、身分の高い人も低い人も、それ相応に望み
    願うことのつきないのが、世間の人々の真情であって、これ
    で満足だと思われる時節はないものであるのに、世間には
    自分は満足することを知っている風な口をきき、そんな風な
    顔をする人が多いのは、例によって シナ 風のうそという
    ものである。ほんとうに心底からそのようにさとっている人
    は、千万人にひとりも見つけがたいことであろう。

 上に引用した宣長の意見を──シナ 云々という非難を除けば──私は同感します。「足を知る」 というふうに悟っている ひとは大宗教家を除いて いないのではないでしょうか。

 逆に、専門家にとって──言い換えれば、一つの道における熟練者にとって──「足を知る」 ということは自殺行為になるでしょう。専門家 (あるいは、熟練者) は、ひとつの道を三十年・四十年のあいだ歩み続けて研鑽を積んで、みずからの ワザ を ますます進めるはずです。その途上では、みずからの ちからの至らなさに嘆いて、いくどか絶望感 (あるいは、挫折感) を味わうはずです。

 絶望を味わったことのない熟練者というのは、天才を除いて いないでしょう、きっと。私のような凡人が、二十七年間、データ 設計 (および、データ・モデル 作り) ひとすじの仕事をしてくれば、いくども、絶望感 (あるいは、挫折感) を味わってきました。そういう途上では、たぶん、ほとんどの専門家 (熟練者) は、みずからが この仕事に向いていないのではないかというふうに感じてきたのではないでしょうか。じぶんの ワザ (あるいは、仕事) が、まるで 「呪い」 のように感じられるのではないでしょうか──私は、そう感じました。仕事を呪いながらやらなければならないというのは地獄絵さながらの状態です。でも、その専門の ワザ を捨ててしまうと、私は私自身を証明 (身証) できなくなってしまう。私の ワザ は、私そのものです。その ワザ が身体のいちぶになっているからこそ、生来 感受性の強い・内気な私は、人生において臆病を些 (いささ) かも感じることがなかった。しかし、私の作った ワザ が私を呪う。

 「自分は満足することを知っている風な口をきき、そんな風な顔をする人」 に対して、私は、正直に言うなら、反吐がでる。仕事における熟練ほど尊い行為はないけれど、いっぽうで、それは呪われた絶望の道でもある、というのが私の専門 (モデル を作る仕事) を振り返ったときの偽らざる感想です。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、大久保 正 訳。

 
 (2010年 7月 1日)

 

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