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It is no sure rule to fish with a crossbow.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     一般に言って古代以来唐土の風習をみると、何事にもよらず、
     伝統を尊重しないでもっぱら自分らのわずかな知恵で考えて、
     すべての事を変え改めて手柄をたてようとするふうがある。
     これはただ自分の才智だけを信じて、まことの道を知らぬもの
     と言わねばならぬ。だからそのようにして考えた議論や理窟は、
     いくらもっともらしく理にかなっているように聞えても、実際の
     ことになるとその議論のようにはゆかず、思いがけない欠陥が
     あらわれてくるものであるが、それはまことの道理にかなって
     いないところがあるからなのである。

 上の引用文において、最初の文──「一般に言って古代以来唐土の風習をみると」 という文──を除けば、宣長が述べている意見は、多くの事態について──少なくとも、「伝統と革新」 とか 「通説と私見」 とかを扱った テーマ に対して──適用できるでしょう。逆に言えば、多くのことに適用できる意見であれば、その意見でもって 「唐土」 を非難しても的確な非難にはならない、ということです [ 宣長の意見は大雑把すぎるでしょうね ]。

 たとえば、上の引用文は、システム 設計の いわゆる 「分析段階」 にも適用できます。ただし、文中の 「伝統」 というのは、「学問の通説」 という意味で考えるべきです。すなわち、システム・エンジニア が DFD や ERD や UML などを「伝統 (学問の通説) を尊重しないでもっぱら自分らのわずかな知恵で考えて」 描いている、ということ。この点については、「反 コンピュータ 的断章」 のなかで、いくども くり返して非難してきたので、もう ここでは改めて非難することを止めますが、私は かれらの 惚けた仕事──特に、クラス 図と称した図を描いている仕事──を観ていると、かれらが はたして 「抽象 データ 型」 という意味を ほんとうに わかっているのかどうか訝しく思っています。かれらが描いた クラス 図と称した図を観ても、クワス 図にすぎない。クラス は、システム・エンジニア の恣意で構成できるなどと思い違いしているのではないか、、、そして、クラス は ロジック で演算されるという当然のことを考えていないのではないか。

 ひとりの システム・エンジニア が事業過程を観て頭のなかで どのような 「像」 を描こうが、「原像 (現実)」 は システム・エンジニア の外部で歴然として存在しているのだから、「原像」 が システム・エンジニア が描いた 「像」 の 「逆像」 になることを証明しないかぎりは、そんな 「像」 など システム・エンジニア の夢想にすぎないでしょうね。私がそう非難すると、非難された システム・エンジニア は、たいがい、「でも、こういう図は必要です」 と反論しますが、じぶんがやっている仕事を必要だと思うことは いっこうにさしつかえないけれど、私が問うているのは、まさに、その有効性を証明してくださいということなのです。我流でやってきていれば、証明できないでしょう。証明できなければ、終いには、「どこが悪いのですか!」 と開き直る始末です。しかも、どこが悪いかを私は指摘しました。それを聴かないで 「どこが悪いのですか!」 と開き直られたら、「頭が悪い」 としか言いようがない。「随縁に落入 (おちいり) て真如を喪う」 というのは、こういう開き直りのことをいうのかも。

 プログラマ を体験してから システム・エンジニア になるという キャリア・パス を私は かつて非難しましたが、私は その考えを改めたほうがいいのかもしれない、、、システム・エンジニア は、プログラマ を体験して、ロジック を学習したほうがいいのかもしれない。勿論、構造的 プログラミング など (現代では) 論外です──「抽象 データ 型」 を学習すべきでしょう。そして、「抽象 データ 型」 の モデル で記述された構成は 「有向 グラフ」 であって、グラフ のなかの項は、演算対象である、という モデル の基本を外さなければ、「クラス」 の意味もわかろうはずでしょう。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年 9月 1日)

 

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