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The bee is often hurt with its own honey.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

      だいたい世の中のことというものは、どんなに賢いといって
     も人の知恵や工夫では及び得ないところがあるものだから、
     そう簡単に新しい方法を行なうべきではない。すべての事に
     ついて、もっぱらその時代の風にそむかず、昔からきまって
     ずっと行なわれてきたような事柄を守って政治にあたれば、
     たといいくらかまずいことはあっても大きな誤りはおきない
     ものである。何事でも長らくなれ親しんできたことは、少し
     は悪いところがあっても、世の人々が安心するものである。
     新しく始めることは、よいところがあっても、おいそれとは
     人が安心しきらないものであるから、できるだけは旧来の
     ものに従って、改めないでいくのが国政の大事な点である。

 読み手たる われわれは、この文が 「政治」 について綴られた文であることを、まず、心にとどめておきましょう──「学術」 の分野では、こういうことは有り得ないでしょう。尤 (もっと) も、現代では、「政治」 においても、「change」 が謳い文句になっているので、宣長が述べたことは時代おくれの感があるでしょうね──宣長が この文を綴ったのは江戸時代であることも忘れてはいけないでしょうね。

 ちなみに、荻生徂徠も同じことを述べています。徂徠と宣長という江戸時代の第一級知性が、同じようなことを言っているのは興味深いですね。第一級の知性が、それぞれの生きた年代が違っているにもかかわらず──徂徠は 1666年から 1728年、宣長は 1730年から 1801年──、同じようなことを言ったというのは、江戸時代の政治制度が急激に変化したのかしら。歴史年表を調べてみたら、徂徠と宣長が生きていた頃に、改革政治が断行されていました──徂徠のときには、享保の改革がおこなわれ、宣長のときには、寛政の改革がおこなわれました。ふたりが述べた意見は、そういう政治改革のなかで考えなければならないでしょうね。

 さて、宣長の言のなかで私が興味を抱いた点は、「政治」 という観点を離れても 「人性」 として、「何事でも長らくなれ親しんできたことは、少しは悪いところがあっても、世の人々が安心するものである。新しく始めることは、よいところがあっても、おいそれとは人が安心しきらない」 という点です。わが身を振り返っても、そういう性質のあることを しかと感じます。私の感性──「思考対象 (すなわち、刺激変化) を狙いさだめる感覚」 を生じさせる はたらき──は、私の若い頃 [ 20歳の頃 (37年前)] のそれと それほど変わっていないのではないか、と [ 否、逆に鈍くなっているのかもしれない、、、]。

 コンピュータ・テクノロジー は、特に 1990年代なかば以後、急激に進化してきています。テクノロジー の その変化に対して われわれの意識が追いついていないのではないかしら。しかも、コンピュータ 業界で仕事をしている システム・エンジニア──特に、事業過程を対象にした システム 作りを仕事にしている システム・エンジニア──の意識が、あいかわらず、「構造的 プログラミング」 の思考を 「守っている」 というのは、いったい、どういう意識なのかしら。1970年代の時代 (事業環境) において ききめ のあった やりかた であっても、環境が変化すれば──2010年の時代では──、継続適用しても ききめ がでないことは、常識でわかるでしょう。環境 M で ききめのあった やりかた m を、環境が変化して──「前提」 が変化して、と言い換えてもいいでしょうが──環境 N になったときに継続適用するのは、「継続性」 「一貫性」 の順守ではなくて、「誤謬・誤用」 として断罪してもいいでしょう。しかも、そういう現象 (誤用) が、いまだ、厖大な数に及んでいる現象は、「長らくなれ親しんできたことは、少しは悪いところがあっても、世の人々が安心する」 という 「人性」 を超えて、まるで、停止できなくなって暴走する機械 (あるいは、「みんながやっていること (the things to do)」 に同調する群衆心理) と同じ現象ではないか。

 ちょっと立ち止まって、ちょっと常識をはたらかして、以下のことを自問してみればいいでしょう──「われわれの今の やりかた は、今の環境のなかで ききめ があるのか」 と。一昔前の やりかた で (しかも、「構造化」 を我流で変形した) 図を描いて いい気持ちになっても──そりゃ、じぶんのわかる程度の図を描いていれば、満足を覚えるでしょうが──、時代おくれになっているにすぎないのに、「分析」 図──昔の [ 今の環境にあわない ] やりかた で描いた図──は大切だと自画自賛している。そういう システム・エンジニア の 「テクノロジー に対する感覚」 って一体なんなのか。

 勿論、最近の キーワード に飛びついて、明日にでも 「革命」 が起こりそうに吹聴している連中も論外です。ひとつの テクノロジー が しっかりと根づくまでには、数年から 10年くらいの年数がかかるでしょう──というのは、それくらいの年数を費やさなければ、実感をもって使いこなせないでしょうね。新しい テクノロジー が マーケット に出てきたとき、われわれ エンジニア は、「マーケット」 「商品」 および 「組織」 という チャネル (channel) のあいだで、その テクノロジー を どのようにして適用すれば 企業の収益獲得力に貢献できるか、ということを考えていれば、「古きに止まらず、かつ、新たに先走る」 こともないでしょうね。「実務家 (practitioner)」 としての エンジニア の職責は、「テクノロジー を実地に適用する」 ことにある、という当たり前のことを外さなければいいだけのことです。

 システム・エンジニア が じぶんの頭のなかで どのような夢想を描こうが、「環境」 は歴然として存在して歩み続けている──ひとつの企業の事業 プロセス (運動) は活物であって、日本の経済環境のうごき (運動) のなかの一部分であって、日本の経済環境の うごき は世界の経済環境の うごき (運動) のなかの一部分である──、という事実を忘れなければ宜しい。したがって、ひとつの事業のみを対象にして構造化 [ ひとつの ソリューション を考えて、それを構造的 プログラミング で記述すること ] を考えても環境変化に対応できない (あるいは、対応し難い) ということ。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年 9月 8日)

 

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