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When it thunders the thief turns honest.

 

 本居宣長は、「玉くしげ」 のなかで、以下の文を綴っています。(参考)

     (略) ところが近ごろは、ここにもかしこにもあいついで起こる
     ので、もう珍しくもない事になってしまって、まず一時静まれば
     それでよいということにして、事実の調査もそれほどくわしく
     行わない。首謀者を一、二人つかまえて型のごとく処刑をして
     しまうと、当局は、実績にかんがみて措置の悪かったところを
     反省して改めようと努力するでもなく、こんな事は世間に例も
     多いというわけで、それほど恥辱とも思わずにすましている
     ようなところもあるとかいう。

     (略) ただ定まった おきて さえ立てばよいということですまし
     てしまう。

 上に引用した文は、「百姓一揆」 について宣長が述べている意見の中から一部を抜きだした文です。私 (佐藤正美) は、上の引用文を読んだときに、システム・エンジニア の仕事を思い浮かべて、ふたつを対比して、上の引用文を以下のように翻訳 (読み替え) していました。

     (略) ところが近ごろは、ここにもかしこにもあいついで起こる
     ので、もう珍しくもない事になってしまって、まず一時静まれば
     それでよいということにして、事実の調査もそれほどくわしく
     行わない。実績にかんがみて措置の悪かったところを反省し
     て改めようと努力するでもなく、こんな事は世間に例も多いと
     いうわけで、それほど恥辱とも思わずにすましているような
     ところもあるとかいう。

     (略) ただ決められた手続きさえ守っていれば それでいい、と。

 この文を読んで冷や汗のでない ユーザ 企業は、ほとんど ないのではないかしら。システム 導入のために多額の投資をしたので、システム が失敗だったとは言えない、とりあえず、プロジェクト 管理を実施して システム 開発の手続きを順に辿ったし、「納入日」 までに導入できたので 「失敗ではなかった」、と。しかも、その 導入された システム の effective (そして、efficient) を計量するために対比できる他の システム は存在しないので、その システム の良し悪しを、いかほどか 「作文」 して専決できる。言い換えれば、その システム の導入を請けあった システム・コンサルタント や ソフトウェアハウス も、システム (データベース、ネットワーク など) の性能に関して ユーザ 企業に対して言質を与えていなければ、システム の 「性質」 に関してなら いかほどか 「作文」 して言い逃れはできる、ということ。本来ならば──「抽象 データ 型」 の モデル(注意) を前提にさえしていれば──、ロジック で計量できることに対して 「作文」 を 拵 (こしら) えないはずなのだが、、、。

 
(注意) 「抽象 データ 型」 の モデル、
 単純に言い切れば、「現実的事態」 を そのまま 実装していること。ただし、こういうふうに単純に言い切れば、misleading になる怖れがあるので、以下の注意を補足しておきます。

 (1) ユーザ が 「現実的事態」 を記述するために使っている言語 (「情報」) を、文字列
   と見做 (みな) して、「現実的事態」 を 「形式的に」──すなわち、ロジック を使って
   ──構成すること。

 (2) 「形式的構造」 (モデル) が 「現実的事態」 と一致しているという 「真」 を実現し
   ていること。すなわち、形式化された構成が事実を記述している、ということを験証
   できること。

 以上の 2点を以下のように まとめてもいいでしょう。

 (1) 生成規則

 (2) 指示規則

 したがって、現実的事態を形式化した構成が 「真」 であるかどうかは、以下の 2つの 「真」 を実現していなければならないでしょうね。

 (1) ロジック (生成規則) 上の無矛盾性

 (2) 形式的構成と現実的事態との一致 (指示規則)

 (1) では、たとえば、自然数を演算する形式的構成を考えれば、「1」 を入力して 「3」 を出力する やりかた には、「1+1+1」 という やりかた もあれば 「1×3」 という やりかた もあります──そして、いずれの やりかた も、ロジック において、無矛盾です。つまり、無矛盾な やりかた は、いくつも考えられる、ということ。無矛盾な やりかた が いくつも考えられるけれど、それらのなかで、スッキリ した やりかた が 「エレガント な」 やりかた というふうに謂われるのでしょうね。無矛盾な状態のことを 「L-真」 と云います。

 いっぽうで、もし、現実的事態を モデル 化しているのであれば、「原像 (現実的事態)」 は形式的構成の 「逆像」 になっていなければならない──すなわち、形式的構成と現実的事態が、なんらかの験証法を使って 「一致」 していることを テスト しなければならない、ということ。形式的構成と現実的事態が一致している状態を 「F-真」 と云います。

 或る限られた前提において、「L-真」 は いくつも存在できますが、「F-真」 は 1つしかない──「或る限られた前提」 という まだるこっしい言いかたをした理由は、「レーヴェンハイム・スコーレムの定理」 が証明したように、「前提」 を変えれば、他の (真なる) 公理系を作ることができるので、或る前提で正しいことが他の前提では正しいことにならない場合が生じます。いずれにしても、或る限られた範囲のなかで形式化を実施するのであれば、そして、その形式化が 「現実的事態」 を対象にしているのであれば、いくつもの 「L-真」 のなかで 「F-真」 は 1つしかない、ということを忘れてはならないでしょうね。

 ちなみに、オブジェクト 指向を謳いながら、「抽象 データ 型」 モデル を前提にしないで、「構造化手法 (および、構造的 プログラミング)」 をやっている連中が多いのを私は眼にして唖然としています──本 エッセー の中で、「この文を読んで冷や汗のでない ユーザ 企業は、ほとんど ないのではないかしら」 と綴った理由は、私が現場で多々眼にした状態ですが、私の眼にした実例というのは それほど数が多くないので [ 百件を超える数ではないので ]──それでも、百件くらいの実例を観てきていますが──、「ではないかしら」 と推測の形で述べた次第です。

 
(参考) 「本居宣長集」 (日本の思想 15)、吉川幸次郎 編集、筑摩書房、太田善麿 訳。

 
 (2010年10月 1日)

 

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